日本語の學習(皇紀弐千六百七十七年二月二十一日 弐)

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 なぜ現代假名遣ひなるものがあるのか、ずーーーーーっと疑問に思つてゐました。

 文部省とその御用學者が、我が國の國語を消滅させたかつたから作られたことがわかりました。情けない。我が國は、世界でも奇跡のやうな文化・文明を誇つてゐるため、他國のやうに樂に亂れる文化・文明を選択しやうといふ動きが常に起きます。いつの時代もその惡しき勢力との戰ひなのですね。

 でも、その惡しき勢力を阻止してきたのは、いつもほんの少人数の人たちでした。よーーーし、力を盡さないと。現代假名遣ひは、語学の面から見ても、まつたくでたらめです。つまり、

私たちが、今、使つてゐるのは日本語ではないのです

 三島由紀夫の文學的遺言である、「小説とは何か」で正しい日本語を學習してゐます。
 このやうな同意は本來ならば、きびしい倫理的決斷である筈だが、小説の讀者は、同意によつて何ら倫理的責任を負はないですむといふ特典を持つてゐる。その點は芝居の觀客も同樣だが、小説が芝居とちがふ點は、もし單なる享受が人生における倫理的空白を容認することであれば、いくらでも長篇でありうる小説といふジャンルは、芝居よりもずつと長時間にわたつて、讀者の人生を支配するので、(あらゆる時間藝術のうちで、長編小説はいちばん人生經驗によく似たものを與へるジャンルである)、人々は次第に、その倫理的空白に不安になつて、つひに、自分の人生に對するのと同じ倫理的關係を、小説に對して結ぶいたることがないではない。すなはち讀者は、與へられた特典を、自ら放棄するにいたるのである。

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このページは、宝徳 健が2017年2月21日 05:50に書いたブログ記事です。

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