日本語の學習(皇紀弐千六百七十七年三月十二日 四 三月十一日の日誌)

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 この記事は讀者のみなさまは、讀んでいただく必要はありません。私が正しい日本語をルーティンで学習しているだけのものだからです。

 ひとつだけ知つていただきたいのは、私たちが學校で學んできた日本語は、嘘であることです。それも、日本語を潰さうとした、文部省(當時)を中心とした勢力がなした愚行です。陰謀がありました。このあたりは、福田恒存先生の「私の國語教室」をお讀みください。

 三島由紀夫の文學的遺産である「小説とは何か」で正しい日本語を學習してゐます。
 もつとも熱心でまじめな讀者が、つひに小説作品と倫理的關係を結ばうと熱望するにいたるのは自然であるが、又、そこまで讀者をのめりこませる小説にはたしかに傑作が多いのは事實であるが、小説の最終的責任はそこまでは及ばない。

 そこまでは及ばない、といふことを、しかし作者は、作品のどこかに、こつそり保證しておかなけれなならない。これをかりに藝術上の制御装置と呼んでもいいし、言ひ古された言葉で藝術上の節度と呼んでもよい。その制御装置を持たぬ作品は、却つてどこかで、作者自身の藝術家としての倫理的責任をごまかしたものであることが多いのである。そしてもし制御装置がしつかりしてゐれば、だまされた讀者がわるいことになり、だましたはうにはちやんと言譯が立つのである。

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このページは、宝徳 健が2017年3月12日 05:32に書いたブログ記事です。

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