日本語の學習(皇紀弐千六百七十七年四月十日 四)

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 朝の仕事はいいですね。朝のおつとめをし、仕事をしながら合間にブログを書く。とてもリズムができます。久しぶりのシリーズです。これは皆様は讀んでいただかなくても結構です。私の修行の一つです。立派な日本人になるための。

 三島由紀夫の文學的遺産である「小説とは何か」で日本語の學習をしてゐます。

 三島由紀夫と谷崎潤一郎の小説を讀んでゐると、最初、徹底的に讀者を挑發してきます。「ほ~ら、この先も讀み進むかい?それともやめるかい?」と。そして、讀み進めると、イメージが鮮明になります。最初のころはあんなにわからなかったことが。「そうか」と。にくらしいですね。


 ・・・・・・・さて、讀者についてあれだけ齒に衣着せぬことを言つたからには、今度はその刃を、小セtの作者自身へ向けなければならない。

 ものごとをやるには、それぞれに適した才能を持つてゐなければならないのは自明の理で、曲がりなりにも職業的作家としてやつてゆける人間は、それだけの才能に惠まれてゐると云はななければならない。

 では、航空技師にならず、株屋にならず、作曲家にならず、小説家になつたといふ才能の特質はなんであらうか。

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このページは、宝徳 健が2017年4月10日 04:48に書いたブログ記事です。

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