今日から、時々和歌も。
望(もち)ぐたち 清き月夜(つくよ)に 我妹子(わぎもこ)に 見せむと思ひし やどの橘
大伴家持です。家持が青年の時、後に妻となる坂上大嬢(さかのうえのいらつめ)に橘の花を贈る際に添えた歌です。
満月の清き月夜にあなたに見せやうと思つた橘の花ですよ。
ああ、いいなあ。情緒がある。若い時にかういふ口説き方をしたかった(笑)。
さて、三島由紀夫の文學的遺書である「小説とは何か」を題材に正しい日本語の學習をしてゐます。
満月の清き月夜にあなたに見せやうと思つた橘の花ですよ。
ああ、いいなあ。情緒がある。若い時にかういふ口説き方をしたかった(笑)。
さて、三島由紀夫の文學的遺書である「小説とは何か」を題材に正しい日本語の學習をしてゐます。
もちろん人生には幾多の偶然が働くから、親の強いた教育のおかげで、文學的才能を持ちながら航空機工學の權威となつたといふ人もあらうが、結果論で云へば、それは單に彼の文学的才能がすべての制約条件を打ち破つて噴出するほどに強力なものでもなければ、宿命的なものでもなかつたといふことになる。
私は今不用意に宿命的といふ言葉を使つたが、才能といふ考へ自體に宿命論があるのであるから、小説家になれなかつた男は小説家の才能がなかつたからにすぎない、と極言することさへできる。これが作家たちにこびりついて離れぬ転職の意識と職業的自負になつてゐるのである。
私は今不用意に宿命的といふ言葉を使つたが、才能といふ考へ自體に宿命論があるのであるから、小説家になれなかつた男は小説家の才能がなかつたからにすぎない、と極言することさへできる。これが作家たちにこびりついて離れぬ転職の意識と職業的自負になつてゐるのである。
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