源氏物語 57(皇紀弐千六百七十七年四月三十日 六)

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 光源氏の正妻 葵の上の産後の肥立ちが惡く、葵上は危篤状態になりました。

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 そしてなんとみまかつてしまつたのです。

 そして、光源氏も、生前、仲良くしてあげられなかつたことを悔やみます。二条院(光源氏の本宅 紫の上が住んでゐる)にも歸りづらいし、他の女性にももつぱら手紙を送るだけです。

 一方、六条御息所はいよいよ、娘が伊勢の斎宮に就くことになり、軆を愼むことがもつぱらで、光源氏との文通も拒否してゐます。これがまた光源氏にはつらくてしかたがありません。

人の世を あはれと聞くも 露けきに おくるる神を 思ひこそやれ

 晩秋の朝ボラ家、光源氏のもとに菊の枝が届き、手紙が結ばれてゐました。筆跡を観れば、典雅典雅、すぐに六条御息所からだとわかります。この歌はそのときのものです。

 人のむじょを聞き涙を誘われ、残された方の袖も濡れることも案じてゐます。

とまる軆も 消えしも同じ 露の世に 心おくらむ ほどぞはかなき

 光源氏の返歌です。だれもみな消えて行くはかないこの世に心を執着させるのは無駄なことです。そして、これはやはり生霊への人ことです。  

 六条御息所は、「ああ、やつぱり氣づいてゐるじゃん」。「つらいわ」 つづく

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このページは、宝徳 健が2017年4月30日 12:42に書いたブログ記事です。

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