2017年5月アーカイブ
年間目標達成ペースまであと15。六月の早いうちに囘復させます。
1月:52 ▲10
2月:21 ▲35
3月:41 ▲21
4月:115 +55 計228 あれっ? ▲11だ。 まっ、いいか~。
犬塚信乃が生まれたところからでしたね。
昨日、家に歸らうと思ったら、JRが沿線火災で西明石驛で、電車がストップ。一つ先の明石まで行けば阪神電車に乗り入れしてゐる山陽電鐡に乘れたのに~。泊まりました(涙)。ほか辯を食ひながら。
前回は、大塚が犬塚になったいわれでした。さて、信乃が生まれるときの話をします。
これを書いたらあと▲15通で年間目標達成ペースに追い付きます。明日は17通書きます。讀者がそんなに讀めないか(笑)。まあ、このブログはしょせん私のわがままで成り立つてゐます。お付き合ひください。
我が福髙高校は、とても面白い學校でした。先生が、未熟な生徒を大人扱いする。生徒はそれを自覺する。甘えを許さないのではなく、甘えから出てくる結果を生徒自軀に責任を負わせる。
まさにネガティブリストなんです。あんなことが髙校で實現するなんて、いまだに信じられません。
自覺・自律・自立。人間が生きる基礎力です。それをわからずやたらマネジメントしたがる經營が横行してゐるから經濟がおかしくなります。
私は、髙校時代、有機化學が大好きでした(實は、理系だつた:笑)。有機化合物の構造式を書くのが大好きでした。化學の先生は、確か小林先生。普通の教科書なんて無視です。自作の教科書。私は今でも、その自作の教科書を持つてゐます。
ナイロン6-6の構造式を自分で書いたときなど、感動で軀が震えました。とにかく大人の教育。
今の日本の教育は、國も企業も子供を育ててゐます。
小學:世間に出ても恥ずかしくない教育を施す。
大學:大人の教育を施す。
中學:矛盾する事柄を処理する考へ方を持つ
かつての我が國の教育です。それを、福髙高校は、自然とやつてゐました。すばらしい。
西日本新聞に連載されてゐる記事「福髙讃歌」をお樂しみください。
閑話休題(このことば氣に入りました:笑)。大塚に所領をもっていたのになぜ、番作は犬塚かというところからでした。
今日は番作と手束の馴れ初めの話をする予定でしたね。
でもその前にちょっと、理解促進のために当時の時代背景を説明します。
閑話休題。大切にしていゐた數珠ブレスレットが、壊れてしまひました。それも3つも。パーンつて紐が切れて珠がはじけたんです。
これは奈良の東大寺で賈つたとてもよい數珠です。
これは入院した時にHYTさんにいただいた、少彦名神社の病氣平癒の數珠です。
これは先日辞めたスタッフが、これまた入院の時に飛騨高山で賈つてきてくれた數珠です。
なんと三つとも同時期に・・・・。天が何かを告げてゐます。
パラパラと 舞ひ落ちる珠 床に散る 心の甘さを 散らされるやう
今日まで、七十二候 小満 次候 紅花榮です。「べにばなさかふ」と讀みます。あたり一面に紅花が咲く頃です。紅花は古代エジプト時代から染料として利用されてゐました。花びらの水に溶ける黄色の色素と、水に溶けない赤の色素から、紅色がつくられます。
そして、明日から、小満 末候 麦秋至です。「むぎのときいたる」です。
麦が熟し、たつぷりと金色の穂をつける頃です。百穀が成熟する、麦にとつての「秋」です。この時期に穂を揺らしながら吹き渡る風を麦嵐、また降る雨を麦雨と呼びます。
またまた福岡の友達が、西日本新聞に掲載されてゐる福髙讃歌の記事を送ってくれました。
舊制中學から新制髙校になつたのは、昭和二十三年(1948年)ですから、この記事に載つてゐる、昭和二十ニ年(1947年)のラグビー全國優勝は、まだ舊制中學ですね。
福髙で傳統的に強いのが、ラグビー、硬式テニス、バスケです。どの部も全國優勝の經驗があります。
この時代の解説は私には無理なので、記事をお讀みください。
急に暑くなつてきましたね。立夏を過ぎて、小満ですものね。夏になると思ひ出します。ガソリンスタンドには、當然電灯があります。夏になるとそこに虫が集まつてうつとおしくて仕方がありません。ある夏、親父さんと一緒に夜ある宇佐美のSSに行きました。
私は、やはり最初に出てくる犬塚信乃(いぬづかしの)が大好きです。犬塚信乃戌孝(いぬづかしのもりたか)。
私もその中の一人です(笑)。 その中のその中に、「007」がありました。
ショーン・コネリー。たまりませんね。この人の眞似をしたくてバーに行き「マティニィ ベリードライ」と注文してバーテンダーに笑われたものです。
さまざまの 世のたしなみも ことのはの みちのうへには たつものぞなき
両首とも、明治天皇の御製です。
今日は、天智天皇と大海人皇子の話から少し離れて、聖德太子の話を。
今年九十歳になる父が、自分の人生を振り返つてゐます。子供の私でも知らないことばかり。それに面白い。金亨貞さんとの手紙のやり取りです。金さんは、台風を颱風と書いていらっしゃる。すごいですね。注記は父です。
宇佐美の親父、第八弾です。
宇佐美のSSは、それぞれ個性があるのですが、ある部分ではきちつと意識が統一されていゐます。當時3000人からいる社員にどうやつてこの意識統一をするかを宇佐美氏に尋ねたことがありました。
伏姫の月経がとまりました。って、ところからでしたね。
さあ、八犬傳の本番に突入していきます。仁義禮智忠信孝悌。伏姫のおなかから出て行った八つの珠が大活躍。これが八犬傳です。もう、面白いのなんの。
蚕が、桑の葉をたくさん食べて成長する頃です。人々の暮らしを支えていたため、「おかいこさま」と敬称をつけて呼ぶ地方もありました。
私たちが子供のころは、養蚕はとても軆近なものでした。
戰爭における勝利は、計画の巧みなるより、實施において意志強固なるものに歸す。
物語は第十帖に入ります。タイトルは「賢木(さかき)」です。
まずはもうおなじみの六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)です。くれも繰り返しますが、六条御息所は、桐壺帝の弟がまだ東宮であつたころ入内して娘をまうけ、皇后になつたかもしれない人なのです。
出自は申し分ありません。教養も、器量も、たしなみも。どれも優れていて文句のつけようがありません。
でも、東宮が早世して寡婦となりました。
今年九十歳になる父が、私たちに必死に人生を遺そうとしてゐます。引き繼ぐのは長男の私のミッションです。
金亨貞さんとの手紙のやり取りのつづきです。注記は親父です。
インターバルとは、二列縦隊で走つてゐるとき、一番先頭が「ダッシュ!!」と聲を出します。すると、最後尾の二人がダッシュして、先頭の前まで走ります。これが延々と續きます。
元永君が辞めるといいだしたのですね。練習がきついからなかなか勉強との両立が・・・・。ごめんね。
今は違ふやうですが、當時の福髙は、壓倒的に男子が多い學校でした。なので、女子を全クラスに適正配分できません。だから、2クラス 「男くら(ダンクラ:おとこばかりのクラス)」がありました。汚いのなんの。
元永君は西南中学出軆だつたのですね。
しかし出会って、いくどかお話しをうかがうにしたがって、意を強くしました。「この人は、石油業界唯一の真実だ」と。
同じ機種を修理に出すと三日かかるとか・・・。代替機を貸すといはれましたが、メールと電話だけとか・・・。それでは困るので、新規購入・・・・。 iphon7・・・・。またみんなから文句をいはれさう(涙)。
みなさん、引っ越しの時は、スマフォをおいて作業しませう。
東京から南房総に行くには、昔は船で木更津まで行く方法がもっとも近かったようです。木更津も中々味な街です。そこから、君津、富津と超えて、安房の国に入ります。途中にある保田は、鋸山(のこぎりやま)があるところ。山頂がギザギザしているので鋸山。大仏や観音様や千五百羅漢などがあります。結構面白い山です。そして、保田を過ぎると岩井です。ここは枇杷の産地です。そんじょそこらのスーパーで売っている枇杷とはものが違います。とにかく、いろいろなことが楽しめるのが房総半島です。
さてさて、山に入った伏姫と八房はどんな生活をしているのでしょうか。
といふことで昨日は、ブログを書きませんでした。今日、挽回しないと。
今囘の日誌は、私たちのマドンナ 生田晴美マネジャーです。なんで生田さんが書いたんだろう???
坂本くんとは、仲の良かった福岡中央高校テニス部の選手です。
親父が清涼飲料水 幻のツルチュックを探し始めます。
さて、敵将景連の首を獲ってきた妖犬八房です。
義実(よしざね)は困ってしまいます。八房にどんなうまそうな餌をやっても見向きもせず、犬飼たちが遠くへ引いていけば、たけり狂い、鎖を引きちぎって、室内に暴れこみ、奥座敷で枕草子を読んでいる伏姫(ふせひめ)を押し倒します。
宇佐美の親父の話は、以前書いた時も大反響でした。8年前に南総里見八犬傳を書いたときは、あまり反響がなかったのに、今囘はすごい。なぜでせう?
では今日も親父さんの力を借りて。
昔、宇佐美のガソリンスタンドの店長が、集金に行くとき、会社の車に彼女を乘せてまわっていたそうです。たまたま街に出ていた親父さんが、それを目撃しました。
あなたならどうします? 呼び出して怒ります? そんなの小者がやることです。
明朝もおそらくブログが書けません。仮眠後に、仕事~。樂しいな~。
しかし、長い。手元にある日誌をブログに打つてゐるのですが、2ページにわたるとさすがにつらい(笑)。
まあ、讀んでください。
アグネス・ラム・・・・・懐かしいですね。
さ~て、妖犬八房にとんでもない約束をしてしまった里見義実(よしざね)です。どうなることやら。
父と金亨貞さんとの手紙のやり取りです。注記は親父がかいてゐます。
宇佐美の親父さんの話し。第五弾。
そのまえに、前の親父さんの記事で、生姜燒きの話をしたので、鯛のかぶと煮の話もすこし。宇佐美本社の近くに、あるとき、京都料理の店ができました。宇佐美本社に行くと
親「おお、寳德、今日は飯を食つていけ。近くになあ、京都料理の店ができたんだ」
親父さんは、いつも、近くにあるジョナサンかラーメンですから、そんなご馳走が食べられるなんて。
行ってから、いろいろな料理を注文しました。そのひとつに、鯛のかぶ煮もありました。
またまた親父さんの機嫌が惡くなります。私「(またか~、今度はなんだよ~)」
私「どうしたんですか?おいしそうですよ。食べませうよ」
親「寳德なあ。鯛のかぶと煮は、なあ、もっと出汁が濃くて、つけあはせのごぼうにまで、しみこんで、噛んだら、キュッと辛さがなあ口の中でひろがらなくてはならんのだ」
私「ここは、京都料理の店ですよ。薄味なのはあたりまえでせう」
親「うるさ」
と云ひながら、結構食べてゐました。親父さんのかういふところも大好きだったので、私は苦にならなかつたのですが、社員のみなさんは敬遠してゐました(笑)。
閑話休題。消火器の話し。
いかに優秀な將帥も、敵に勝つことのできない者は將帥としての價値はない。敵に勝つためには、まず部下の信頼を獲得するとともに、これに確信を與へ、戰勝に對する熱烈なる信念のもとに、この部下を敵にに指向し、萬難を排してこの信念をつらぬかねばならない。戰勝を獲得するためには戰略・戰術の巧拙よりも、このことの方がはるかに重大な意味を持つ。
明治天皇御集の中の、このひとつあとの御製が、
です。
私は、自分の和歌が稚拙なのは、よくわかつてゐます。もう詠むのをやめやうかなあ、と思つたときもありました。あるとき、和歌でとても有名な人とお話ができるチャンスがありました。その方曰はく「いいのいいの、出来榮へなんか氣にしなくて、どんどん詠めばよいの」と仰つてくださいました。とても氣が樂になり、今に至つてゐます。厚顔無恥ですね(笑)。
仕事の合間にブログを書くのはいいなあ。
あの素晴らしい小説を正しく知ってもらうために、再掲載しますね。
その前に、前回、前城主の妻、玉梓(たまずさ)という女性が登場しました。この女、とんでもない食わせ物で、ある部下と密通し、自分の夫を殺害してしまったのです。だから、里見義實(よしざね)は、その部下をやっつけて、自分が城主となったのです。そのとき、玉梓は、里見家に禍をふりかけると宣言して、首を切られたのです。
この話が、最近の八犬傳でぐちゃぐちゃになってゐます。玉梓が義實の奥方だったとか、義實が前情趣を奪ったとか。許せないですね。
閑話休題。つづきです。
さつきの記事で書き止めと云ひながら。どうしても許せません。あんなに八犬傳をゆがめて解説してゐる人が多いのが。 以前書いていたシリーズをもう一度書きます。平成二十一年(2009年)11月から書き始めてゐますね。
当時はまだ、當用漢字と現代假名遣ひです。變換するのが面倒なので、そのまま、コピペしますね。このシリーズは非賣品の本にしてゐます。
宇佐美の親父さん第四弾。
宇佐美の親父さんには本當によくしていただきました。人間としてずいぶん鍛えられました。當時宇佐美はガソリンスタンドが200か所から300か所に急成長してゐる時期です。無理に増やしていったのではありません。力をつけると自然と事業は擴大するんだということを見せて、魅せていただきました。
それだけ設備投資をしても、借入金額はまつたくかはりません。むしろ減つてゐきます。生産性が髙いからです。事業の天才です。
その擴大の中で、新規出店する店(全国)によく連れていつてもらひました。樂しかつたな~。
そんな出張のある日。
NHKの人形劇が子供のころありましたね~。とても樂しみにみてゐました。その人形劇が放映されていた時期に育つた子供だけが「♪仁義禮智忠信孝悌♪」をすらすら言へるさうです(笑)。
手短ですみません。
今日は、甥と姪の誕生日です。同じ誕生日です。
親父さんは、業界からは「安賣り」とレッテル貼りをされてゐました。あるとき私に「寳德、俺は安売りはしたことがないぞ。現金安の掛け髙と云ふ至極當たりまえのことをしてゐるだけだ」と仰いました。
驚くことなかれ、石油業界では、長く、「現金髙の掛け安」と云ふ、とんでもない商習慣がありました。掛け賣りの方がコストが髙いkので、市場価格が髙くなるのは當たりまえです。
石油業界の常識は世間の非常識だつた時代です。
なので、ガソリンスタンド店頭に掲げてある價格看板の現金價格を髙く誘導してゐないと、掛け賣り先から價各ダウンを要求されます。
朧月夜は、右大臣の娘です。光源氏の勢力のライバルです。怖い怖い弘徽殿大后(こきでんのおおきさき)の妹です。朱雀帝っへの入内(じゅだい)がうわさされてゐます。
たけのこがひょっこり顔を出す頃です。伸びすぎなひうちに収穫しなければ、美味しいたけのこは味はえません。種類によつて収穫期が異なります。
私たちが子供のころは、あちらこちらに竹林がありました。みなくなりましたね~。
今日まで、七十二候 立夏 次候 蚯蚓出です。「みみずいづる」と讀みます。
冬眠していたミミズが土の中から出てくる頃です。他の生き物は「啓蟄」の頃に出てきますが、ミミズは今頃。でも、土を肥やしてくれる影の努力家です。
今囘は、小田君ですね~。記憶にないことをたくさん書いてゐます。
コートの吸出し?水道屋? 水道屋は關係ないと思ふのですが、あまりよいコートではないので、しばしば水の吸出しをしなければなりません。 本當は、塩化カルシウムだつけ、カリウムだつけ、を撒いておけば、テニスコートは著しく水はけがよくなりますが、貧乏テニス部にその豫算はありません。
こわる(こわっとる)とは、博多辦で、「筋肉痛」です。
大田皇女と大海人皇子の正妃であつた鸕野皇女(うののひめみこ:のちの持統天皇)は共に中大兄皇子を父とし、蘇我石川麻呂の娘 遠智娘(おちいらつめ)を母とする姉妹でした。
大田皇女は、大海人皇子との間に、大伯皇女と大津皇子を産み、鸕野皇女は草壁皇子を産んでゐます。
この年七月、斉明女帝は筑前朝倉の行宮で崩御され外征は中止されました。大化の改新以來、孝徳、斉明二帝で敏腕を振るった中大兄皇子は、直ちに践祚することなく、臨朝彌制(天子に代わつて政務をすること)といふ形をとりました。斉明天皇の巨大な土木工事や、大規模な遠征は、その行きづまりがみられてきました。
しかも大陸派兵は續けられ、天智天皇治世弐年 663年8月に白村江の戰ひで大敗し、大陸の前進基地は放棄せざるをえなくなりました。 つづく
宇佐美の親父第二弾です。ずつと前にこのブログで書いたことです。復活~♪
あるとき親父さんが「宝徳、飯を食っていけ」。
経理にTさんがご馳走してくれる時は、かなりよいものなのですが、親父と行くとファミレスとかそんなとこです。でも、親父と話ができるのでうれしくてたまりません。この日はラーメン。
よく云はれるのが「會つた印象と、ブログを讀んだイメージが全然違ふ」。まあ、いいか。
昨日、そのFKさんからラインをいただきました。
父が朝鮮在住の時の友人、金享貞さんからの手紙のつづきです。太字は親父のコメントです。
私は、支那・朝鮮のことをぼろくそに書きますが、仲の良い支那人・朝鮮人ももちろんゐます。彼らは、私以上に過激なことを自國に對して云ひます。でも、自國ではそれは云へない。
お~、あつたあつた。フランスですね。
ランニング週間は、福髙テニス部の傳統です。1週間毎日走り續けます。月曜日から土曜日まで。徐々に距離を伸ばし、最後は、太宰府まで走ります。往復38キロメートル。とにかく走りました。當時はまだタイブレークが普及してゐません。ワンセット5-5(ゲームジュース)になると、2ゲーム差をつけるまで延々と試合が續きます。髙校生ですから、5セットマッチはありませんが、3セットマッチでも、3時間を超えることはざらでした。とにかく運動能力と體力は絶対必要条件でした(もちろん十分条件ではありませんが)。
陸上部が、私達テニス部が走つた距離を目標に走つてゐました。
宇佐美グループの創業者 故 宇佐美史郎によく言はれてゐました(親父、ごめん、呼び捨てで)。
「寳德なあ、いつも同じやうにやれ。調子がいいからたくさんやつて、調子が惡いときにはやらない。これはだめなんだ。いつも同じやうにやれ」。だからこのブログの經營では、親父に怒られますね。
宇佐美の親父さんには、本當にかはいがつてもらひました。我が子のやうに。私が出光興産㈱名古屋支店の時の出光最大の販売店の社長さんです。一代で、一店舗から、年商4000億円にまで事業を立ち上げました。でも、4000億円を目指していたわけではありません。これもいつも云はれた言葉です。
「寳德なあ、儲けやう、儲けやうとするな。儲けやうとすると、商売が小さくなるし、社員の心も小さくなる。客に應へろ。さうすればなあ、客が自然に商売を大きくしてくれる」
かつてこのブログにも書いてゐました。親父が考へる眞理を。書いてゐるとこれまた涙がでます。
私は數かぎりない素晴らしい人と出會つたのに、何ひとつ活かしてゐません。親父のことについてはまた書き始めますね。
さて、隱くれた我が國の救世主 井上毅(いのうえこわし)のことについてのつづきです。
井上毅の強さは、子供のころから「四書五經」を徹底的に学び、朱子學にも通じてそれを血肉とした結果、井上が獲得した價値觀であり、アイデンティティでもありました。それに對して横井の言ひ分は、大儒學者であつても自らのアイデンティティを放棄し、熊本藩のアイデンティティを否定し、我が國のアイデンティティをも否定する納得しがたい説と井上にはうつりました。
前囘書きましたが、横井の「四海兄弟」説にも強く反論しました。人類が皆兄弟だったら、なぜ、植民地が生まれるのかといふことです。開國主義者の横井が「鎖國、鎖國とばかり云つてゐると、英國、アメリカなどの四國連合隊に砲撃された長州のやうな目に遭うぞ」といふと「四海皆兄弟で、西洋が本當に文明の上にあるなら、なぜ彼らは長州をあんな目に遭わせるのか。『萬國』を『一體』と見るほどの國であるのなら、開國を拒否する長州をなぜ『敵』とし、滅亡の禍に陥れるのか。それが天理なのか」と反論しました。
西郷隆盛も『南洲翁遺訓』で「本當の文明國ならそんなことは絶對にしないはずだ」と言つてゐます。
今の『グローバリゼーション』などという耳に心地の良い言葉も同じことです。貿易につひても、自國の國益を得るために、他國を陥れるような「自由貿易」などという言葉が使はれますが、これは羊の皮をかぶつたオオカミです。貿易を自由化する時は、國内規制を強化しないと國家の経済が滅びること等、國際常識です。不勉強なメディアにすぐに騙されるお人よしの日本人は、他國と仲良くしていれば自國も潤うと勘違ひします。これが間違いなことは、敗戦後七十年近くアメリカにいいやうにやられてきた歴史が証明しています。
井上の主張が横井への反發レベルで終わつてゐたら、彼は單なる鎖國論者として終わつてゐました。ところが彼はさうなりませんでした。井上は、傳統や慣習を大切にしながらも、現實主義者でした。國際関係についても、横井の楽観論には與みしませんでした。それゆえ、いつか國を開かざるを得ないことが現實だとしたら、どうやって國を開けばいいのか、そのためには何が必要か、を考へました。我が國に対するこの一途ともいへる信念やこだわりがなければ、明治維新はまったく違ったものになっていました。そして、我が國は、もうなかつたでせう。たつた一人の男が、明治維新にみなが酔うなかで冷静だつたのです。
マキャベリはご存知ですか?ニッコロ・マキャヴェッリ。イタリア、ルネサンス期の政治思想家です。フィレンツェ共和國の外交官で、『君主論』、『ティトゥス・リウィウスの最初の十巻についての論考』、『戰術論』を上梓してゐます。
マキャベリは、かう言つてゐます。今の我が國國民が知るべきものです。
☆君主は軍事に専念せよ。軍事は君主の本務であり、これを忘れて、優雅な趣味などに心を向けていれば必ず國を失ふ。
☆武器なき人格者は滅びる。
☆君主に強い軍隊がある限り善良な同盟国に不自由することはない。
「なんと藤壺に似てゐることか」
こととき、光源氏二十二歳、若紫十四歳です。今なら、児童福祉法違反でお縄です。
ある夜、光源氏と若紫(紫の上)に何か決定的な誘いが示されました。
いいですね~。
あれつ? テニス部日誌を書かうと思つたら、日誌がない。今日、仕事する岐阜事務所に送つた荷物に入れたのかなあ。いつもの手持ちの鞄に入れたつもりだつたのに。書けない。悲しい。
「龍馬の金策日誌 竹下倫一 祥傳社新書」。面白か~。
愛する我が母校の愛する福髙讃歌の歌詞ばい。よーとみちゃりやいね。
一
學び舎にめぐれる月日
友垣の集ひ重ねて
永遠(とこしへ)に訓(おしへ)は残る
姿勢(まこと)もて業(わざ)勵まばや
姿勢もて業勵まばや~♪
二
たけ髙き銀杏の並木
朝夕に何思ふらん
大地(つち)深く根ぞ養へる
その姿雄々しからずや
その姿雄々しからずや~♪
ああ、だめっちゃ!涙が出てくるばい。福髙の歌はすべて愛しとるけんね。なんもかんも歌ふと涙が出てこやうが。この歴史的假名遣ひもたまらんめえが。
こげなよか髙校の學び舎でくさ、最髙の友垣に圍まれてくさ、今でも、その友垣と集つてくさ、永遠(とこしへ)に残る教へば、語りあふと。たまらんめえが。幸せつたい。たまらんめえが。いはせんめえが。
なんかあつたら、スッと集まるつたい。集まつたら、なんも言はんとに、誰かが何かの役割をスッとやりよつたい。みんなが、みんなを本當にすきつたい。その會合が終わつたら、樂しさの餘韻がしばらく續くつたい。たまらんめえが。
ただ百周年やないつたい。この傳統を髙め繋げならがの百年つたい。すごかろう!!!
なかなかでけん(博多辦)ことつたい。
今までこのやうなオピニオンリーダーがいただらうか。まずは、上念司氏。彼の書く本はマクロ經濟を學習する上で最適です。必ず、マクロ→ミクロの順に入つてください。經濟學だけではなく、學問は、ミクロから入るとなぜそのミクロが存在してゐるかがわからなくなります。まさに、全體最適→部分最適ですね。彼の書く本はどの本も、「よくかういふ切り口でマクロを説明できるな」とその斬新さに驚いてしまひます。
まずは經濟で讀みとくシリーズ。「明治維新」「大東亜戦争」「織田信長」この3冊を読むだけで、「活用できるマクロ經濟」を會得できるでせう。まあ、頭カチカチの既存經濟學者や經濟評論家は、かういふ人が出てくるのは面白くないでせうね~(笑)。
今囘は、真城くんです。
父が朝鮮在住の時の友人、金享貞さんからの手紙のつづきです。太字は、親父のコメントです。
本で明治の男たちのことを知つたり、身近にゐる、うちの親父を見たりすると、明治の男や昭和一けたとはすごい奴らだなと思ひます。決めたことはやる。教育が違ふのですね。
福髙讃歌の第四弾です。
かの大戰を乘りきつた、私たちの福髙の先輩たちです。この素晴らしい髙校の火をよくぞ消さないでくださいました。
私が福髙で過ごしたことを、甥(姉の子)に小さい時から聞かせてゐました。小さい時から彼の目標は、私と同じ出身髙校と大學になつてしまひました(笑)。ごめんね。
その妹の姪も福髙。かうやつて繋がれていくのですね~。
福髙に入つてまず驚くことは、何日ぐらいだらう、體育館に閉じ込められて、全員が、校歌をはじめとした福髙の歌を、すべて完璧に覺へさせられるのです。「聲が小さいつたい!!!」「なんばしよつとや!!!」 應援團の怒聲が體育館に響き渡ります。
そこにも先生は一人もゐません。とにかく口を出しません。體育祭もさうです。金は出しても口は出さない。 たかだか十七、八歳の髙校正のやることに一切口を挟まない。これは、簡單さうで、なかなかできるものではありません。不安でしかたがないと思ひます。でも、しない。
こんなマネジメントができる髙校があるでせうか? それも百年も。
生徒會運營も、各部への豫算配分も、すべて生徒が自主運營。自主獨立を學びます。
組織は、リーダーシップで決まります。マネジメントも必要ですが、リーダーシップがないマネジメントは、ただやみくもに草原で草を刈つてゐるやうなものです。
今の、我が國は、眞のリーダーシップ教育が行われてゐません。だからマネジメントとリーダーシップを混同する人がかなりゐます。明治の人間は、各界の要職をなす人間がほとんど軍人でした。だから、「將帥」「將校」がどういふものかがよくわかつてゐました。
それが、髙等文官試驗(現 國家公務員上級職試驗)なんていふくだらないものを作つてしまつたので、また、お受驗などといふくらだない世界を作ったもので、「優秀な行政官」をエリートと勘違ひしてしまつてゐます。官僚も民間企業も企業經營者も。あっちもこっちも石田光成のやうな奴ばかりになつてしまひました。
官立學校は、せいぜい義務教育までで充分です。官立の大學なんてあると權威がのさばり世の中に弊害を遺すばかりです。髙校以上は、私學でいい。寺子屋でいい。官立學校では、眞のリーダーは育たない。
では、統帥參考のつづきです。
立憲主義がどうとか、違憲だとか、常識を知ってゐたら言へないやうな恥ずかしいことを云ふ人がたくさんゐます。憲法違反と憲法典の条文違反とは違ひます。
朝鮮の友達からの手紙です。素晴らしい日本語ですね。今の私たちは恥づかしい。
その前に、こんなことを書いてゐます。
(前略)〇月初めから風邪をひいたことが原因かな?と思われる絶望的な状態になりましたが、45日後、完全に復調し、「矢でも鉄砲でも持ってこい」と意気盛んです。
こんなことを書いてきたのは初めてです。まあ、九十歳ですからね~。
支配層 両班が、人民を苦しめました。ビビンバとは、両班が食い残したものを、庶民が混ぜて食べたのが始まりです・
セオドア・ルーズベルトは、強くなる我が國を弱めるために、日本に朝鮮半島の併合を押し付けました。
フランスも愚か。マカロンではなくてマクロンか。ではなく、ルペンでせう。
さて、今囘は、寺田君ですね。ニックネームは「つばめ返し」。自分を君付けで書いてゐます。倉富さんとは英語の教師です。大濠までは往復10㎞ぐらいですかね。
九州女子(笑)。今度機會があつたらね(ないか(笑))。
先日、福髙校歌は本當は、五番まであつたさうです、とお傳へしました。GHQ(占領軍)に氣づかい三番以降を隱したとも。東京福中・福髙同窓會のHPに三番以降が載つてゐました。古い資料なので、古ぼけてゐて、讀み取れない字もあります(誰か知つてゐる人がいたら教えてください)。〇が讀みとれない文字です。GHQに氣づかつたのは、太字のところでせう。百周年を機會に復活してほしいものです。
三
聞け玄海の 濤の聲
千里を越えて 〇〇を
寄せて砕くる 潮しぶき
弘安以來 六百年(弘安の役 元寇です)
青史をかざる ますらをの
剛健の〇 〇見ずや
四
伏敵門を 仰ぎつつ
千代の松原 万代も
かはらぬ松の 深緑
ここに集へる 吾〇の
操守の色に 似たらずや
五
雄々したのもし 山河の
勝れし國に 生ひたちて
日毎榮行く 大御代の
重き任務を 身に負ひつ
起ちて四海の 風雲を
叱咤せん日よ とく來れ(自信なし)
なんと崇高な校歌でせう。
福髙の校訓(經營目的)は、以下の三つです。
今日の産經新聞は面白かつたなあ。政治經濟面ではありませんよ。
まずは、最近の産經新聞の大ヒットは、「朝けの空に」です。大正天皇の皇后 貞明皇后の六十六年の人生が綴られてゐます。この記事はいい。明治天皇と昭憲皇太后、昭和天皇と香淳皇后の狭間で、大正天皇と貞明皇后はあまり取り上げられたことがありません。貞明皇后(節子様)は、とても愛情こまやかな方です。
貞明皇后は旧摂関家の九条家の四女、節子として生まれ、明治33(1900)年、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)と結婚し、昭和天皇をはじめ4人の皇子をもうけました。
そして、我がテニス部も全國制覇經驗4囘です。だから、私の代のテニス部經營目的は「テニス部の傳統と誇りを取り戻す」でした(しばらく低迷してゐた)。
その目的を果たすためには、何が何でもインターハイに出場(目標)。だから、どんなつらい練習にも耐えました(手段)。
どんなに練習でつらくても、試合で負ける辛さに比べたらはるかに樂です。もつとしんどくなれ、もつとしんどくなれ!と思ひながら練習をしてゐました。
今囘は、浅川君です。かれは中學時代、バスケット部でした。
生田さん、初登場ですね。テニス部のマドンナ マネジャー、生田晴美さん。まあ、とにかくしつかりものです。彼女の旦那になつた人は幸せですね。失礼な、そんな素敵な女性を「おばちゃん」だなんて(笑)。確か生田さんも中学時代バスケット部です。とても上手でした。
私が驚いたのは、福髙に入つて、福髙の先生が言つた言葉です。
「授業は、上位5人のレベルで行う。ついてこられないものは知らない」。まずこれです。自己責任。の、くせに、授業は、教科書無視。1時限自分の好きなことを話して終はる先生もたくさん(笑)。でありながら、試験のときは、教へてゐない範囲からバシバシ試験問題が出ます。
かと思つたら、受験のための髙校生活は送るな。髙校は4年間あると思へ。3年間精一杯髙校生活を樂しんで1年浪人すればよいではないか。
とにかく生徒のすることに干渉しないんです。だからリーダーシップをもつた人間が育ちます。つまり、マネジメントを自分でさせる。先生は生徒に対してマネジメントをしない。自然と、自分をマネジメントできる人間が育ち、その人間が、他の人間と共鳴しながらお互いにリーダーシップを發揮します。
福髙同期と同窓會などをしてゐると、終わったとき、だれも何も云はないのに、それぞれが、自分なりに役割を決めてそれを果たし始めます。だれもやっていない仕事があると、すっと、誰かがそこに入ってやり始めます。いつもすごいなあと思ひます。
今の會社はたいしたこともない上司が部下をマネジメントしすぎです。私はサラリーマン時代の課長のときに、次席によく言つてゐました。「〇〇さん(かなり年上の方)は、みんなから上がってくる報告書を5割ぐらいしかみないでください。私は2割しか見ません」「それでいいんですか? 副支店長や支店長から怒られますよ」「それが私の仕事です」。
社員がへまをやらかしても會社は潰れません。上司がリスクになることの方がよほど怖い。經營のガバナンスがしつかりしてゐれば、部下のミスなんて、どうもありません。ただし、部下の仕事も人間もよく「観て」あげるととが大切です。部下を「観ないで」、仕事ばかり「見て」ゐる上司のなんと多いことか。これでは企業は強くなりません。
自分で考へ、自分で決斷して、自分で責任をとる。かういふ部下を育てないといけません。
福髙(ふっこう)は、まさにさういふ人間教育をしてゐました。それでいて進學校。だつて自分で進路を決めるんですもの。先生や親に決められてたまりますか。
福髙の校歌を紹介します。本當は5番まであつたさうなのですが、GHQ(占領軍)の報復を恐れて、3番以下を削つたさうです。復活してほしい。2番には至誠・3番には剛健・4番には操守と校訓が織り込まれていたさうです。つまり、福髙の經營目的です。
一
大空ひたす東海の
中に國成す大八洲(おおやしま)
しまに輝く文明の
光を浴びてわれ立てば
筑紫の山野ことごとく
希望の色に燃ゆるかな
二
山紫にうすがすむ
春縹渺(はるひょうびょう)の朝ぼらけ
萬の花にさきがけて
あるじわすれぬ紅梅の
清きかをりを放つとき
至誠の念は胸に満つ
「紫草のやうに、照り映える美しいあなたを憎く思つたら、人妻なのに戀しく思ひませうか」
これを書き終はると▲50です。
(明治天皇御製)
述懐:事しあらば 火にも水にも いりなむと 思ふがやがて やまとだましひ
國:人もわれも 道を守りて かはらずば この敷島の 國は動かじ
明治天皇の御製を詠むたびに心が洗われます
(我が國の恩人 井上毅)
今囘は、井上毅と横井小楠の第三の論點をみていきます。
第三の論點:交易問題 開國して世界貿易をやらなければならない、と横井が主張したのに對し、日本は農を本とする國である。ところが、開国して海外のものが入つてくるようになると必然的に商が榮え、必要以上に商が大きくなると、日本は江戸・大阪のようになつてしまうのではないか。と井上は反論しました。 江戸・大阪の町人は勞苦を厭い「奇利末業」を追い、人々は贅沢に慣れ、民情は「遊惰」に流れてゐました。それに對し、熊本は農を本とした國をつくつてゐる上に、道德の亂れもなく、よく治まつてゐました。國を開けば、他國の悪習がどんどん入つてくる。キリスト教も入つてくる。その混亂をどうするのだと、井上は問いました。 |
サブキャプテンの中垣君が、この日のキャプテンをしてゐます。何があつたのだらう? 私は、學校を休んでもクラブだけにはいつてゐました。どこか体を壊して病院にでもいつたのかなあ?昭和五十一年です。
写真でご確認できる通り、校門を入つたらすぐにフェニックスの木があります。
昭和二年六月二十三日に、(當時)福中は大火事にみまはれました。世に云ふ、「福中大火」です。駆け付けた教員・生徒が必死で書類や標本などを運び出しましたが、コンクリート造りの玄觀以外、校舎は燒け落ちてしまひました。
焦土を前にしても、福中魂は健在です。「福中燒くとも、福中魂は燒けず」をこれを合言葉にして誇りを以て再建に挑みました。
そして、昭和四年四月に鐵筋3階建ての新校舎が完工。どんな逆境にも決して屈しない精神を脈々と受け繼いできました。
創立五十周年のとき、OBからその不屈の精神のシンボルとして、このフェニックスの木が贈られたのです。
西日本新聞に、「福髙讃歌」として、百周年を讃へる記事が連載されてゐます。
「福髙讃歌」とは、私たちが、大好きな、福髙の歌のひとつです。
この髙校を出て本當によかつたと、胸を張つて云へない卒業生はいないのでは。ひとつひとつの思ひ出を囘顧すると胸が熱くなります。
どんな組織でも、リーダーは方向性を決めて、そして、そのリスクと責任を取る必要があります。方向性とは1つしか選択できません。つまり、方向性を決めると云ふことは、他の選択肢を捨てるといふ、リーダーにとって、吐くやうな苦しさとなります。そのために、状況分析や情報収取が必要となります。つまり、インテリジェンスですね。
私は、福高テニス部で、「インターハイに行く」といふ方向性を決めました。「インターハイに行きたい」ではありません。行くんです。
我が福高テニス部は、全國優勝したこともあるほどのテニスの名門です。そうそうたるOBがゐます。テニス部経営目的は、「傳統と誇りを取り戻す」です。だから目標が「インターハイに行く」です。
これが私のリーダーシップの限界でした。「インターハイで優勝する」なら、もつと違ったマネジメントが出来てゐました。
それよりも、リーダーとしての私が「インターハイに行く」と決めるとします。他の部員にとつてはどうでもいいことなんです。「女の子にもてたいからテニス部に入った」人間も、「まあ、なんとな格好よささうだからテニス部に入った」人間もゐます。彼らにとっては、「インターハイに行く」など迷惑な話です。
それを、認めさせるのがリーダーです。マネジメントではありません。
我が福岡高校は
至誠勵業
剛健成風
操守堅固
が経営目的です。驚くほど、生徒の自主性に任せます。先生は一切口を出しません(怒られる時以外は)。
髙校のときに、その話を家に歸つて親父にしたら「大學のやうな髙校だなあ。よい學校に入ったな」と言ってくれました。福高百周年。誇りに思ひます。
道:國民が こころごころに 進みゆく 道にはさはる ものなくもがな
孝:いとまなき 世にはたつとも たらちねの 親につかふる 道な忘れそ
兄弟:家の風 ふきそはむ世も みゆるかな つらなる枝の 茂りあひつつ
友:もろともに たすけかはして むつびあふ 友ぞ世にたつ 力なるべき
折にふれて:世に広く しらるるままに 人なみの つつしむべきは おのが身にして
正述心緒:よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ
(上記:明治天皇御製)
(昭憲皇太后御歌)
夫婦有別:むつまじき 中洲にあそぶ みさごすら おのづからなる 道はあありけり
では、まずは井上毅について。
プラハの春、天安門事件。。。。共産主義はろくなことをやりません。
わけのわからない輩が、戰前の日本は「軍國主義」「ファシズム」とこれまたわけのわからないことを云ひます。軍國主義とファシズムは相對立する概念どころか、敵同士です。ファシズムとは、國の上に党や宗教があることです。じゃあ、支那に「お前らはファシズムだ」と云へよ。
治安維持法を非難します。擧國一致で戰ふ必要があるときに、共産主義と右翼を取り締まる法律を作つて何が惡いのか。同時に普通選擧法を成立させたことは云はないで。
では、つづきを讀みませう。
博多は、冬になると、曇りの日が続きます。低い雲がたちこめ、どんよりした日が續きます。さむいんですよね~。時々晴れます。 三寒四温も割とはつきりしてゐます。
さあ、今囘はどんな日誌何でせう。
少し、ばたばたしてゐますが、書き留めたいことがたくさんあるので。
今日の新聞に、都留文科大学教授 新保祐司さんが投稿してゐました。私の出光興産時代の先輩です。「海道東征に愛国の神髄を聴いた」といふタイトルです。いいですね~。新保さんのやうな方が眞の保守ですね。
第二の國歌と呼ばれる「海ゆかば」。歌へない日本人が多いことにびつくりしてしまひます。「最後の早慶戦」といふ映画がありました。よくできてゐるのですが、最後に慶早両選手及び神宮球場において、慶早両學生が、海ゆかばの大合唱をしたシーンがありませんでした。がつかりです。
☆ひむろしらゆき祭
かき氷選手權をやるんですつて。面白い。奈良市の氷室神社です。明日と明後日。
昭和48年2月1日發行ですから、もちろん私は入社してゐません。オイルショックの後にこれを出せる當時の出光興産㈱は、やはりさすがですね。
今年九十歳になる親父が、今までの人生や今まで氣づいたことなどを手紙に書いて送つてきます。何かを遺そうとしてゐます。それむをこのブログに遺してゐます。
今囘から、「プラハの春」です。 私たちの年代がギリギリ覺へてゐるかゐないかですね。ただ、當時はこの共産主義關連ニュースなどをみると、「共産主義は怖いなあ。共産主義の國に生まれなくてよかつた」と思ひました。 共産主義とは、世界中の金持ちを殺しまくって、その財産をみんなで分けようといふのが基本思想です。「生産」の概念はありません。「生産」をせずに「分配」するので、すぐに貧乏になります。その貧乏を共産党員に無理強いするか、新たに金持ちをぶち殺すか(侵略するか)しかありません。 そして、極度のビューロクラシー(官僚主義)です。ビューロクラシーがいかに危險かは、我が國の官僚をみてゐてもわかりますよね?
歴史の再確認をしませう。プラハの春です。數囘に分けます。
(用語解説)
閑話休題:余談を打ち切って、本筋にもどる意を表す語。それはさておき。さて。
ビロード革命
1989年10月29日、約1万による集會がプラハで開かれ、人々は改革に動こうとしない共産党ヤケシュ政権打倒を叫んだ。11月に入り、ベルリンの壁開放がとどくと市民・学生の活動は活發となり、11月19日に「憲章77」のハヴェルらが中心となり「市民フォーラム」を結成、政府に対して共産党指導部の辞任、全政治犯の釈放などを要求した。連日30万規模のデモがプラハやブラチスラヴァで繰り広げられ、ついに24日ヤケシュ書記長以下共産党幹部が辞任、12月にはフサークが大統領を辞任し、代わってドプチェクが連邦議会議長、ハヴァルが大統領に選ばれた。こうして大衆行動によって流血の惨事を回避しながら共産党政権の打倒と民主化を實現したチェコスロバキアの変革は「ビロード革命」とも言われている。
1990年に新憲法を制定するに當たり、議会で國名論爭が起こった。國名から社會主義を消すことでは合意したが、チェコ出身議員は「チェコスロヴァキア連邦共和國」にこだわり、スロヴァキア出身議員は「チェコ=スロヴァキア連邦共和國」とすることにこだわつた。スロヴァキアの獨自性を強く意識したのだった。双方とも譲らず、國名さえ決まらないといふ異常事態となったためハヴェル大統領が仲介し、いずれをも公式名彌とすることで妥協が成立し、異例の二重表記國家が生まれた。それでもスロバキア側の不満はくすぶり続け、4月には「チェコおよびスロバキア連邦共和國」の統一表記とすることで一応決着したが、分離の流れを止めることはできず、1993年についに國家分離となった。
さて、今日は、安河内Bくん。
ふりまわし といふのは、一人がネット近邊に立つて、球出しをします。もう一人が、ベースラインに立します。球出しは、コートのどこにでも好きなところに球を落とします。拾う側は、それをとにかく拾いまくる。目的は何?ですつて? 知りません。根性の育成かな? 傳統の練習方法です。3分やると足がガクガク、息はゼーゼー。
同期の前田君は、實によくもてました。デートで休みかな? 誰が何の理由で休んでも、特に干渉はしませんでした。練習の組み立てがあるので、連絡だけはもらいましたが。いいな~。私? 全然もてませんでした(笑)。
一月七日:人日(じんじつ)の節句 七草粥を食べますね。
三月三日:上巳(じょうし)の節句 3月の最初の「巳の日」という意味です。「禊ぎをして穢れを祓ひ、軆代りの人形に汚れをうつして河川・海などへ流す」風習などがあり、江戸時代以降「雛祭り」として庶民の間に定着しました。別名「桃の節句」は有名ですね。
五月五日:端午の節句 5月最初の「午の日」という意味です。古くは「藥草摘みの日」であり藥草としての菖蒲(しょうぶ)が「尚武」の音に通じるとして、男子の立軆出世を願ふ行事へ轉化していきました。
七月七日:七夕(しちせき)の節句 別命 笹の節句です。
九月九日:重陽(ちょうよう)の節句 「九」という数字は、易によれば「陽數の極」にあたり、これが重なる(非常にめでたい)という意味です。支那の風習(この日に菊の花を飾り、邪氣を祓つて長寿を禱るといふもの)が元になつていて、宮中では重要な節句として位置付けられてゐます。別名「菊の節句」です。
そして今日から二十四節氣(にじゅうしせっき) 立夏(りっか)です。夏の始まり。一年で一番過ごしやすい時期です。
七十二候(しちじゅうにこう)は、立夏 初候 蛙始鳴です。 「かわずはじめてなく」と讀みます。
春先に冬眠から目覚覺めた蛙が準備を終へ、元氣に活動し始める頃頃です。オスの蛙の鳴き聲は、メスの蛙を戀しがつて鳴く聲だともいはれてゐます。
息子が歸省してきてゐます。樂しいな~。 前々囘に息子が歸つてきたときに、私の大切な本コレクションが拉致されました。今囘「〇〇、歸つてくるときに、〇〇の本を持って歸つてきてな。」「わかつた」の會話。
帰つてきたとたん「忘れた」・・・・・。
本の名前はヴェノナ。
かの大戰中のソ連の暗号は「ワンタイム・パッド」と呼ばれてゐました。つまり、一囘限りの使い捨てで、どの國も解読できませんでした。その解読にアメリカが挑戦した内容が書かれてゐます。結果的にアメリカが傍受できたソ連の通信数十万件のうち解読できたのは3,000弱です。それでも、すごい事實が。ホワイトハウスのソ連のスパイ。日本でも・・・。
潜龍→見龍→君子終日乾々す→躍龍→飛龍と成長していきます。どの段階もとても大切です。この段階を一つずつ踏んでいかないととんでもないことになります。きちんとしてゐないと、飛龍の段階で、おごり高ぶり、亢龍となって、奈落の底に落ちてしまひます。私は、獨立當初は、ものすごく快調でした。信じられないぐらい収入もありました。なので、調子に乗つて、潜龍をせずに、一氣に飛龍→亢龍です😢。
どんな時にも潜龍時代の確乎不抜の志を忘れない。「我未だ潜龍なり」の氣持ちが何より大切です。さあ、統帥綱領・統帥參考・Mett-t・・・。確乎不抜の志の段階に早くもっていかないと。
つづきです。
明治天皇の御製です。
「おもふことうちつけにいふ」は、情意を率直に表現するといふことです。なので、この歌全體の意味は、感動の率直な表現である幼児の言葉はそのまま歌になるよ、です。
をさなごは歌を知りません。でも、心を素直にすれば、歌が生まれてくると明治帝は仰ってゐます。だつて私たち日本人ですもの。
さて、三島由紀夫の文學的遺書である、小説とは何かを題材に正しい日本語を學習してゐます。少しずつ少しずつ積み重ねます。
軸となつてゐるのは、もう、亡くなつてゐるのに、常に、桐壺です。桐壺を愛した帝はなんと、桐壺帝と呼ばれてゐます。桐壺を瓜二つの美しさで、光源氏を虜にし、そして、光源氏と禁断の愛を育み、光源氏の子まで産む(誰も知らない)、藤壺。自分の理想の女にしようと小さいころから面倒をみてゐる藤壺の姪 紫の上(若紫)。この軸に、いろいろな女性がからんできます。この軸をしっかり押さえ、この軸に女性たちがどうからんでいるかを讀み解くことが源氏物語を讀むこつです。
さあ、その若紫(當分この呼び方をします)と光源氏がいよいよ男女の仲になります。
ちはやぶる 神のまもりに よりてこそ わが葦原の くにはやすけれ
さだめたる 國のおきてはいにしへの 聖の君の みこゑなりけり
いそのかみ 古きためしを たづねつつ 新しき世の こともさだめむ
つくづくと 思ふにつけて 尊きは とほつみおやの 御陵威なりけり
めにみえぬ かみの心に 通ふこそ 人の心の まことなりけり
千万の 民の力を あつめなば いかなる業も 成らむとぞ思ふ
いかならむ ときにあふとも 人はみな 誠の道を ふめとをしへよ
天つ神 定めたまひし 國なれば 我が國ながら たふとかりけり
わがしげる 野にも山にも しげらせよ 神ながらなる 道をしへぐさ
教育勅語の一つ一つに對する明治帝の御製です。
さて、井上毅(いのうえ こわし)についてのつづきです。
萬葉集を學習したら必ず出てくる歌です。この歌は、実は、ものすごい意味を込めたものなのです。
我が國史上、すさまじい英雄が二人存在したことがありました。でも、両雄並び立たずです。悲しい結末がまつてゐました。
天智天皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子:おおあまのおうじ)です。しかし、この二人の血で血を爭ふ時の流れは我が國にとつては大切なものでした。申し上げたいのは、時代の流れを創るとき、それは、生半可なことでは創れないといふことを、現代のぬるま湯に浸かつてゐる私たちは歴史から學ばなくてはならないといふことです。
しばらくは、このお二人のことをみていきませう。
父の手紙を讀んでゐると、「よく、ここまで記憶が」と思ひます。ITがない時代です。メモをとつていたのでせうか? それとも、あの激動の昭和初期を經驗したら記憶に鮮明に残るのだらうか。どちらにしても明治~昭和一けたの人たちはすごい。
つづきです。
彼の英語の文法が合つたゐるのか私にはわかりません(笑)。
岩鬼:まんが ドガベンに出てくる 惡球打ちが得意な選手です。
いっちょん:博多辨で「全く」です。
欽ちゃん:萩本欽一
百恵ちゃん:山口百恵
せからしい:博多辨で「うるさい」です。
でもたまに、さういふジャンルの中で「あれっ?これ」と氣になる本が出てきます。新聞や雑誌で紹介されているときに、その紹介されてゐる本が「きみ、これ讀んだはうがいいよ」と語りかけてきます。
本日、紹介するのはそんな本です。
この統帥綱領・統帥参考は、まだ、私は潜龍です。「潜龍用ひるべからず」ですが「確乎として抜くべからざるは潜龍なり(易経)」です(それとは志のこと)。潜龍の時代は、自分の考えや仕事を世に出してはいけません。でも確乎不抜の志と言つてこの時期に、だれにも負けに志を膨らませることが何より大切です。志をためてためて、そして、次の段階が見龍です。「大人を見るに利(よ)ろし」です。立派な人を見て、それを見習い、何度の何度も訓練を繰り返す時です。そして、守破離で、自分の獨自性を生んでからいよいよ世に出ていきます。躍龍→飛龍へと世の中へ出てきます。
私の統帥参考とMett-t(任務分析)は、まだ潜龍です。世に出す段階ではありません。志をためる時期です。 理想論を述べてばかりの支那の古典の中で、四書五經の五經だけは、とても、參考になります。特に易經は大好きです。まだ漢民族が滅びる前の何千年も前のことですし、支那人が純粋だつたころなのでせう。
このブログで、書きながら、繰り返し自分の軆に入れ、そして、志をためていきます。
讀んでいただかなくても結構ですが、經營者の方には役に立つことしかりです。 最近は優秀な行政官としての經營者が多くなってきました。それでも結構です。でも、本來の姿は、將の將です。
まずは統帥參考から。
支那の古典「大學」に「天子より以て庶人に至るまで、いつにこれ皆、身を修むるを以て本と爲す」とあります。近江聖人と言われた中江藤樹はこの言葉を十一歳の時に聽いて、感動して食事中に箸を落としたと傳へられています。
世界で唯一、支那の古典で人間社会の理想とされた姿を、なんと國全体體實現した奇跡の國である我が國は、この「天子より以て庶人に至るまで、いつにこれ皆、身を修むるを以て本と為す」を最も大切にしていました。
明治初期に、欧米文化が濁流のやうに我が國に流れ込み、我が國に危機が訪れます。それを救つたのが、井上毅(いのうえこわし)です。この方がいらっしゃらなかったら、我が國はもうなかったかもしれません。今の國籍だけ日本人だらけの我が國のように・・・。
髙校時代、この二つの歌は、なぜか、すぐ頭に入り、そして、今も覚えてゐます。
我が國の國體は「シラス」でも、欲望に渦巻く人間社會で、この國體を實現するためには、筆舌に盡しがたい困難を乘りきらなければなりませんでした。
大國主命が支那勢力から我が國を護つたとき、そして、その大國主命さえ、シラスを忘れてウシハクに走り、天孫降臨によりシラスに移行する國譲りのとき、そして、この大化の改新・・・。そのたびに犠牲(?)になる人間が出てきました。とてもつらいことですね。一切の利權を排しシラスを實現する側と、それまでの利權を護ろうとする側。どちらも惡くありません。だつて、他國では、後者の方が當たりまえなのですから。
先の和歌は、有馬皇子(ありまのみこ)の歌です。
ああ、この光景をまた観たいものだが、無理だらうなあ。家でご飯を食べる時は器に盛るが、ここでは椎の葉か~。
つづく
まあ、それでも普通の九十歳に比べたら元氣ですが(笑)。たいしたものです。昭和一桁とは、私たちとは生き方が違ひます。
つづきです。まあ、九十歳の親父が子供のころのことをよく覺へてゐるわ(笑)。
今日は、大日本帝國憲法の告文を紹介します。えって、大日本帝國憲法が惡い憲法と思つてゐる人がまだいるんですか???? 朝日新聞より冗談がきつい(笑)。
石原慎太郎氏が今日の産經に投稿してゐました。氏は、「天才」で田中角栄を持ち上げるなど、およそ信じられないことをしましたが、今日はまともなことを書いてゐました。
それを紹介するとともに、私見を。ああ、早く、このブログで大日本帝國憲法vs日本國憲法を書きたい。書きたいことが多すぎて。
邪教、日本國憲法のことは後で書きます。
昨日遅くに息子が歸つてきました。「ヴェノナ」を持って帰ってきてね、とお願いしたのに、「あっ、忘れた」(笑)。どんな彼でもかはいくてしかたがありません。世界一の親ばか。ヴェノナについてはまた今度。
今日から、博多は、どんたくです。
♪ぼんち可愛いや 寝んねしな
品川女郎衆は 十匁
十匁の鉄砲玉
玉屋が川い すっぽんぽん♪
行きたいな~。200万人以上集まる祭りなんですよ!!!
今日は弥永君です。この日は博多‐貝塚ランニング。どのくらい? 10キロ以内です。それでも集団で走ってこの時間だからいいですね。
次の日の香椎までのランニングがきついと。たかだか往復24キロです。
7日まで。
調査研究の中で、一番樂しみなのは、任務分析(Mett-T)と統帥綱領です。統帥綱領の中でも、圖上戰術をやるのがうれくて。ずつとずとつ探してゐました。舊帝國陸軍の將校教育で使はれたものです。
手に入りました。すぐにではありませんが、これを企業教育に當てはめます。とても樂しみです。
左側のやつなんか、「秘用済後燒却」と書いてあります。
憲法に教育無償化を書くさうです。
憲法の意味が全くわかつてゐません。
でも、これはすごいなあ。
軍隊は、あいつが俺の云ふことを聞かなかったから戰爭に敗けたと言ふことはできないのです。民間企業の方がはるかに甘い。
その甘さを唯一古今東西克服したのは故出光佐三ぐらいでせう。
統帥綱領は、日本陸軍の將官と參謀のために、國軍統帥の大綱を説いたものです。
私は昭和五十七年に就職活動をし、昭和五十八年四月に出光興産㈱に入社しました。
就職活動の際、大學の先輩が強く推薦してくれて住友銀行も受けてゐました。先輩を裏切る形になり、出光興産㈱に入社しましたが、とても活氣ある銀行だといふ印象を受けました。當時都銀は十三行ありました。それぞれが特徴があり、とても、魅力的でした。グローバリズムか何か知りませんが、その後、合併を繰り返しメガバンク群へ。どうでもいいのですが、今の金融業界には、優秀な人材を見つけるのさへ難しい。ましては德のある人物などみたことがありません。我が國は一體どうなるのでせうか。
この本の内容が本當かどうか、私にはうかがい知ることもできません。
百花の王である牡丹が開花し始める頃です。美しく、存在感があり堂々としている牡丹です。
滋賀県に石山寺があります。紫式部がここで源氏物語の構想を練りました。大好きな寺の一つです。しじみごはんがうまい。
(滋賀県石山觀光協會HP)
さてさて、久しぶりに頭中將(とうのちゅうじょう)が登場します。位が上がつて、今は、三位中將(さんみのちゅうじょう)です。
さて、悲しいかな、明治維新は、下級武士の反亂でした。伊藤博文にしても、山縣有朋にしても、井上馨にしても。
山縣有朋などは、日本陸軍を指導したドイツの名參謀メッケルが「日本刀ほどすぐれた軍刀はない」と絶賛したにもかかわらず、上級武士への見せつけの為、日本刀を軍刀として採用しませんでした。メッケルはその後、日本刀を研究しゾーリゲンを生み出してゐます。
仕事がなくなつた上級武士たちは多くがマスコミ界に転じました。下級武士の彼らがやる政治が、あまりにも稚拙すぎて、笑いながら、新聞紙上で彼らの政策を非難し、そればかりではなく、政策まで論じました。鹿鳴館などは嘲笑しました。
そしてこともあらうに、支那の科挙を眞似た、髙等文官試驗(現 國家公務員上級職試驗)を導入してしまひました。我が國皇室は、支那の思想などを大量に我が國に導入しましたが、拷問、纏足、宦官、科擧など非人道的支那手法は一切導入しませんでした。そのひとつ科擧が姿を變へ、下級武士たちによって導入され、今の、官僚制度につながっています。結果といふと、この官僚たちが、先の大東亞戰爭で我が國をつぶしました。
伊藤博文が、明治天皇の意見に反論する「教育議」というものを提出しました。
主旨は、教育を根本から正さなければならないことは當然としても、それでは西洋列強に對峙するために取り入れてきた、この十年間の文明國になるための教育は一体どうなるのかといふものです。
文部大臣の森有礼も同様の事を述べました。
現代と本當によく似てゐます。我が國は、明治維新後、すんなりと日清・日露の戰爭に勝ち、近代化を進めてきたわけではありません。このような葛藤を先人たちが乗り越えてきたことを、私たち現代人は知る必要があります。そして、今をどうするかを國民レベルで眞剣に語り合うことが何よりも大切になっています。朝鮮在住當時の知り合いから電話があつたところからです。
今囘の日誌は寺田君です。
髙校スポーツといふのは指導者が必要です。練習したことの實践での活かし方、軆體の作り方、練習のペース配分。中期目標とそれに基づいた練習計画、そして、何よりも、メンタル面での指導。それを私たちは、全部自分でやらなければなりませんでした。いや、できていませんでした。顧問はまず部活で我々と接したことはありません。大會のときに、少し顔を見せるだけです。別に恨んではゐません。
「たら」「れば」はいけませんが、中垣、山口といふ抜群の運動神經を持つたレギュラー、豊富な練習量、誰にも負けない根性・・・・、もし、指導者がいれば・・・・。と思ふことがあります。でも、それは今、思ふことで、當時はそんなことは考へもしませんでした。ただ「インターハイに行く(行きたいではない)」と云ふ決意のみが私たちを支えてゐました。
でも、この部誌をみていただいてわかると思ひますが、堅苦しさはありません。ボールの數だって、數へてゐないことのはうが多い(笑)。いいんです。完璧はだめ。續かないから。そして、何より、モチベーションに結びつきません。 さあ、今日は寺田君。
岡ひろみとは、當時はやつた「エースをねらえ」といふ漫画の主人公です。當時のテニスと今のテニスでは、別のスポーツと思はれるぐらい内容が違ひます。デカラケになつたからです。
でも、エースをねらへは、今讀んでも思おしろい。
四十一年前の昭和五十一年です。