支那の古典「大學」に「天子より以て庶人に至るまで、いつにこれ皆、身を修むるを以て本と爲す」とあります。近江聖人と言われた中江藤樹はこの言葉を十一歳の時に聽いて、感動して食事中に箸を落としたと傳へられています。
世界で唯一、支那の古典で人間社会の理想とされた姿を、なんと國全体體實現した奇跡の國である我が國は、この「天子より以て庶人に至るまで、いつにこれ皆、身を修むるを以て本と為す」を最も大切にしていました。
明治初期に、欧米文化が濁流のやうに我が國に流れ込み、我が國に危機が訪れます。それを救つたのが、井上毅(いのうえこわし)です。この方がいらっしゃらなかったら、我が國はもうなかったかもしれません。今の國籍だけ日本人だらけの我が國のように・・・。
井上毅の生き方をしばらく観てゐきます。
井上毅は、天保十四年(1844年)十二月、熊本藩の下級武士の家に三男として生まれました。幼少時代から「神童」の呼び聲髙く、四歳で親が讀む「百人一首」を全部覺へてしまつたと言はれてゐます。暇ができると家の中の井上が占有できる一畳ほどの場所で、小窓から差し込む光を頼りに本ばかり讀んでいる子供だつたさうです。
やがて主家の熊本藩家老・米田家が設けた私塾必由堂(ひつゆうどう)で學ぶことになるのですが、ここでも主家が驚くような神童ぶりを發揮します。この必由堂で井上は、四書五經を徹底的に學びます。井上の驚くべき神童ぶりは、熊本藩に鳴り響き、なんと、陪臣の身でありながら、直参家臣子弟のみに入學が許される藩校・時習館に入れることになりました。かうした過程を経て、彼の考え方が形成されてきました。
井上が二十歳になったときのことです。熊本儒学の大先輩・横井小楠との對話に挑みます。横井はこの時五十六歳でした。福井の松平春嶽に仕へていた我が國を代表する開明派の儒學者です。この論争がたまらなく面白いのです。次囘紹介します。 井上毅つづく
本文もみていきませう。
朕(ちん)惟(おも)フニ、我(わ)ガ皇祖皇宗(こうそこうそう)國ヲ肇(はじ)ムルコト宏遠(こうえん) ニ、德ヲ樹(た)ツルコト深厚ナリ。我(わ)ガ臣民(しんみん)克(よ)ク忠ニ克(よ)ク孝ニ、億兆(おくちょう)心ヲ一(いつ)ニシテ世世(よよ)厥 (そ)ノ美ヲ濟(な)セルハ、此(こ)レ我(わ)ガ國體(こくたい)ノ精華ニシテ、教育ノ淵源(えんげん)亦(また)實(じつ)ニ此(ここ)ニ存ス。 |
本當は、譯したくありません。私などが訳すと教育勅語を貶めてしまいます。この美しい勅語の言葉を何度も何度も唱和してゐると、我が國國民なら、自然と心にの中に意味が染み入つてきます。でもまあ、初級版なので譯を掲載します。本當に恥ずかしい。お許しください。
私が思ふには、我が皇室の先祖が國を始められたのは、はるかに遠い昔のことで、代々築かれてきた德は深く厚いものでした。我が國民は忠義と孝行を盡くし、全國民が心を一つにして、世々にわたって立派な行ひをしてきたことは、我が國のすぐれたところであり、教育の根源もまたそこにあります。 |
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