福髙讃歌 2(皇紀弐千六百七十七年五月九日)

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 今日は、ライバル修猷館の記事ですね。修猷館と云ふのはまあ、優秀な學校です。修猷館と福髙は、共に文武両道です。

 私が驚いたのは、福髙に入つて、福髙の先生が言つた言葉です。

 「授業は、上位5人のレベルで行う。ついてこられないものは知らない」。まずこれです。自己責任。の、くせに、授業は、教科書無視。1時限自分の好きなことを話して終はる先生もたくさん(笑)。でありながら、試験のときは、教へてゐない範囲からバシバシ試験問題が出ます。

 かと思つたら、受験のための髙校生活は送るな。髙校は4年間あると思へ。3年間精一杯髙校生活を樂しんで1年浪人すればよいではないか。

 とにかく生徒のすることに干渉しないんです。だからリーダーシップをもつた人間が育ちます。つまり、マネジメントを自分でさせる。先生は生徒に対してマネジメントをしない。自然と、自分をマネジメントできる人間が育ち、その人間が、他の人間と共鳴しながらお互いにリーダーシップを發揮します。

 福髙同期と同窓會などをしてゐると、終わったとき、だれも何も云はないのに、それぞれが、自分なりに役割を決めてそれを果たし始めます。だれもやっていない仕事があると、すっと、誰かがそこに入ってやり始めます。いつもすごいなあと思ひます。

 今の會社はたいしたこともない上司が部下をマネジメントしすぎです。私はサラリーマン時代の課長のときに、次席によく言つてゐました。「〇〇さん(かなり年上の方)は、みんなから上がってくる報告書を5割ぐらいしかみないでください。私は2割しか見ません」「それでいいんですか? 副支店長や支店長から怒られますよ」「それが私の仕事です」。

 社員がへまをやらかしても會社は潰れません。上司がリスクになることの方がよほど怖い。經營のガバナンスがしつかりしてゐれば、部下のミスなんて、どうもありません。ただし、部下の仕事も人間もよく「観て」あげるととが大切です。部下を「観ないで」、仕事ばかり「見て」ゐる上司のなんと多いことか。これでは企業は強くなりません。

 自分で考へ、自分で決斷して、自分で責任をとる。かういふ部下を育てないといけません。

 福髙(ふっこう)は、まさにさういふ人間教育をしてゐました。それでいて進學校。だつて自分で進路を決めるんですもの。先生や親に決められてたまりますか。

 福髙の校歌を紹介します。本當は5番まであつたさうなのですが、GHQ(占領軍)の報復を恐れて、3番以下を削つたさうです。復活してほしい。2番には至誠・3番には剛健・4番には操守と校訓が織り込まれていたさうです。つまり、福髙の經營目的です。


大空ひたす東海の
中に國成す大八洲(おおやしま)
しまに輝く文明の
光を浴びてわれ立てば
筑紫の山野ことごとく
希望の色に燃ゆるかな


山紫にうすがすむ
春縹渺(はるひょうびょう)の朝ぼらけ
萬の花にさきがけて
あるじわすれぬ紅梅の
清きかをりを放つとき
至誠の念は胸に満つ






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このページは、宝徳 健が2017年5月 9日 07:47に書いたブログ記事です。

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