これを書いたら▲36です。
大田皇女と大海人皇子の正妃であつた鸕野皇女(うののひめみこ:のちの持統天皇)は共に中大兄皇子を父とし、蘇我石川麻呂の娘 遠智娘(おちいらつめ)を母とする姉妹でした。
大田皇女は、大海人皇子との間に、大伯皇女と大津皇子を産み、鸕野皇女は草壁皇子を産んでゐます。
この年七月、斉明女帝は筑前朝倉の行宮で崩御され外征は中止されました。大化の改新以來、孝徳、斉明二帝で敏腕を振るった中大兄皇子は、直ちに践祚することなく、臨朝彌制(天子に代わつて政務をすること)といふ形をとりました。斉明天皇の巨大な土木工事や、大規模な遠征は、その行きづまりがみられてきました。
しかも大陸派兵は續けられ、天智天皇治世弐年 663年8月に白村江の戰ひで大敗し、大陸の前進基地は放棄せざるをえなくなりました。 つづく
大田皇女と大海人皇子の正妃であつた鸕野皇女(うののひめみこ:のちの持統天皇)は共に中大兄皇子を父とし、蘇我石川麻呂の娘 遠智娘(おちいらつめ)を母とする姉妹でした。
大田皇女は、大海人皇子との間に、大伯皇女と大津皇子を産み、鸕野皇女は草壁皇子を産んでゐます。
この年七月、斉明女帝は筑前朝倉の行宮で崩御され外征は中止されました。大化の改新以來、孝徳、斉明二帝で敏腕を振るった中大兄皇子は、直ちに践祚することなく、臨朝彌制(天子に代わつて政務をすること)といふ形をとりました。斉明天皇の巨大な土木工事や、大規模な遠征は、その行きづまりがみられてきました。
しかも大陸派兵は續けられ、天智天皇治世弐年 663年8月に白村江の戰ひで大敗し、大陸の前進基地は放棄せざるをえなくなりました。 つづく
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