和歌と國造り(皇紀弐千六百七十七年五月二十三日 六)

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 これを書いたら▲20です。そして、今月のブログが101通になりました。平成十七年(2005年)九月に書き始めてからの新記録です。やりゃあ、できるじゃん。

白雲の よそに求むな 世の人の まことのみちぞ しきしまのみち

さまざまの 世のたしなみも ことのはの みちのうへには たつものぞなき

 両首とも、明治天皇の御製です。

 今日は、天智天皇と大海人皇子の話から少し離れて、聖德太子の話を。
 聖德太子は、日本人のふむべき道として大乘の道をお示しになつて、實人生と眞實との關係をお述べになられてゐます。

「凡夫は常を計するが故に世を樂(ねが)ひて厭離(おんり)せず。二乘は無常を觀ずるが故に世を厭ひて物を化せず。皆佛の意に違ひ、倶(とも)に中道を失す。菩薩は無常を觀ずるが故に能(よ)く存著せず、厭離せざるが故に能く生死に留まって廣く衆生を化し、二乘凡夫の偏に同じからずして妙に中道を得」

 凡夫とは一般の人です。一般民衆は日常生活のために働いてそのはかないことを思はないので、人生の快樂を追うのみに急で、人生を超越しようとしない。「二乘」は佛教用語です。ほんの少し、修行した人とでも言つておきませうか。その人たちは、人生のはなかないことを思しますが、自己一軆の救いのみを求めて佛の周辺に集まります。また一軆のみを求めて學問をします。一般民衆や二畳はらの「小乘」の人たちは、自己に固執して民衆を教化することはしません。凡夫も二乘も倶に、佛の眞意にかなひません。

 これに對して菩薩は、實人生に執着して快樂を追うのみでなく、すべての人とともに實人生を生き抜きつつ人生の永遠の意味を求める道をゆくこと(限られた實人生に永遠の意味を求めて生きること)を追い求めてゐます。

 この聖德太子の思ひを歌に込めたのが、冒頭の明治天皇の御製です。

 和歌とはなんともすごいものです。あの激動の明治期。國の存亡がかかった明治期。大帝は、我が國をお導きあそばしました。 言葉になりません。

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このページは、宝徳 健が2017年5月23日 04:26に書いたブログ記事です。

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