向寿は帰国してそのように王に言上しました。王は息壌まで甘茂を呼び戻し、さっそくそのわけを尋ねました。
甘茂はこう答えました。
「韓の宜陽(ぎよう)は大県です。むかしから、上党(じょうとう)、南陽の富を集めて、県とはいえ郡に匹敵します。しかも宜陽に入るには多くの難所
を越えなければなりません。容易ならないことです。
かつて張儀は、先代の恵王にお仕えして、西は巴蜀(はしょく)を併合し、北は黄河以西、南は上庸(じょうよう)まで攻略しました。しかし人々は、張儀を
ほめずに、張儀を信任した恵王の明をたたえたといいます。
また、魏の文侯(ぶんこう)が楽羊(がくよう)に中山(国名)を攻めさせたときのこと。楽羊は三年でこれを攻略し、帰国して自分の手柄を自慢しました。
そのとき文侯は、彼を非難した群臣の手紙一箱を示しました。楽羊は額を床にこすりつけ、「私の手柄ではありません。ひとえに王のご威光によるものです」と
言ったと聞いています。
ところでわたしは何と申しましても外様の家臣であります。もし王の側近が、韓の肩をもって攻撃をやめるように進言すれば、あなたはきっと二人の言うとお
りになさるでしょう。それでは同盟国の魏を裏切ることになります。また韓の宰相からは、さては甘茂の一存の出兵であったか、とわたしだけが怨まれます。」
まだまだ続きます。明日のお楽しみに。
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