命の手紙 39(皇紀弐千六百七十七年八月七日 弐)

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 昨日は、広島に原爆を落とされた屈辱の日です。広島の原爆戦没者慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と記されてゐます。これを、故小野田寛郎さんがみたとき「これはアメリカ人が書いたのか」と仰いました。
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原爆死没者慰霊碑

 仰る通りです。かの大戰は、我が國はやりたくなかつた。景気を囘復するにはどうしても戰爭に持ち込む必要がアメリカにはありました。でも、時の大統領 狂人 フランクリン・ローズベルトは、戰爭はしないと公約して當選しました。だから、日本に無理難題を押し付けました。極め付けは、ハル・ノートです。

 当時の國務長官がハルなので、ハル・ノートと云はれてゐますが、ハル・ノートを書いたのは、ハリー・ホワイトです。モスクワ・コミンテルン(共産主義の総本山)のスパイです。我が國の世界最強の帝國陸海軍が怖くてしかたがないスターリンは、我が國の眼を太平洋に向けたいため、我が國をアメリカと戰爭させようとやっきになりました。馬鹿なアメリカです。まあ、最も、近衛文麿の側近もコミンテルンのスパイだらけでしたが。

 ただしく、歴史を知りませう。そして戰爭の記憶といふ言葉はまうやめませう。「敗戰の記憶」です。「戰爭はもうこりごりだ」ではなく、「敗戰はもいこりごりだ」です。いざとなつたら戰ふ姿勢と見せないと、國家安全保障にはなりません。そして、過ちをおかしたのは、我が國ではありません。アメリカです。

 長くなりました。では、親父の手紙です。
 つづきです。

 昭和20年7月16日、海軍二等飛行兵曹・宝徳佳男が呉第十一海軍特別陸戰隊・200人を率いて高知県・浦戸海軍航空隊(浦空 うらくう)に着任したとき、ジャワ(インドネシア)に降下した、海軍落下傘部隊の隊長・堀内中佐が浦空の司令になっていた。

 司令はその部隊のいちばん偉い人で中佐か大佐(二佐か一佐)。飛行長と飛行隊長はどちらが偉い?飛行長が偉い。

 余談だが、日立製作所は主任技師が課長よりも偉く、部長クラスだ。「日立」とお付き合いを始めたとき、これがわからなくて失敗したことがあった。副長と課長は、副長が上位の会社と課長が上位の会社がある。 つづく

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このページは、宝徳 健が2017年8月 7日 05:39に書いたブログ記事です。

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