明治百五十年(皇紀弐千六百七十七年十一月二十七日 弐)

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 髙校のとき、明治維新の年号を「いぱつやろうや(1868年)」と覺へました。

 と云ふことは、來年、2018年は、明治百五十年です。そして、平成三十年。陛下は、このことを意識されて譲位をお考へになられたのでせうか。
 明治維新は薄氷を踏む改革でした。

 もちろん、力の差がついてしまつた列強とのアンバランスが一番の脅威でした。江戸時代初期、なぜ、我が國が俗にいふ「鎖國(實際は違ひます。カトリック教會主義の排除)」ができたか。つまり、武装中立です。それは、我が國が圧倒的な武力を有していたからです。豊臣秀吉の時代もさうです。スペインは我が國が欲しくてしかたがありませんでした。でも、壓倒的武力を有する我が國をスペインは攻めることができませんでした。なので、明を服従させ、我が國を攻めやうとしました。それに氣づいた秀吉は、明を攻めやうと出兵しました。別に、朝鮮なんてどうでもよかつたのです。

 わかりますよね。軍事力は戰爭を防ぎます。

 話を戻します。江戸時代、德川吉宗、田沼意次は、列強の脅威を感じ、情報の収集と國防の強化に乘り出さうとしました。田沼意次失脚! このことが我が國に與へた影響は大きい。教科書ではぼろくそに書かれてゐる田沼ですが、松平定信など比べ物にならないぐらい素晴らしい爲政者です。

 そのあとの松平定信が、ちまちました内政に集中してしまひました。そして極めつけは、德川家斉が長すぎたことです。内政權力構造が主流となり、國内では、平和が續きますが、世界から大きく遅れてしまひました。そして、米本位制の破綻とあいまつて、幕府瓦解となります。

 今のどこかの國と似てゐません?平和主義。自分達さへ平和であればいいと刷り込まれた愚かな國民。これだけ、安全保障環境や經濟環境が變化してゐるのに、朝日新聞などと云ふ愚か極まりないメディアに乘つて國會を愚弄する野党。

 安倍さんが必死になってダイヤモンド・セキュリティ構想といふすさまじい外交・安全保障體制を構築しても、それを勉強しやうともしない國民。

 明治百五十年です。學びませう。井上毅が命を懸けて世に出した、大日本帝國憲法と教育勅語。
森有礼に代表される愚かなる海外至上主義組をくい止めたのです。この海外至上主義組の負の遺産が、大東亞戰爭の敗戰を作りました。彼等アメリカ組が作った、東京大學をはじめとする官立大学及び官僚主義が國を滅ぼしました。

 明治は確かに偉大です。でも、それはすんなりできたのではありません。

 開國は、江戸幕府が軍事政權だからうまくいきました。

 明治維新を成功させたのはたつた二人です。高杉晋作と大久保利通。極端な話下級武士の反亂である明治維新を價値あるものにならしめたのはこの二人です。この二人がいなかったら、明治維新は成功しなかつたでせう。

 明治大帝がおわしました。なんといふ幸運でせう。

 さあ、國體を破壊しやうといふ狂氣がますます跳梁跋扈しやうとしてゐます。

 私たち國民が學ぶことが求められます。強く。

もうそろそろ目を覺しませう。明治百五十年を機會に

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このページは、宝徳 健が2017年11月27日 06:43に書いたブログ記事です。

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