命の手紙 62(皇紀弐千六百七十七年十一月三十日 弐)

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 私は、父方も母方も北朝鮮からの引揚者です。父方は、祖父がソ連軍に拉致され歸へらぬ人ととなりました。父は、海軍です。つまり、祖父と父がいないまま、家族は引き揚げてきました。母方は、長男の伯父が從軍してゐました。毎年、敗戰屈辱日になると母が、引き揚げの際のすさまじい體驗をたくさん話してくれました。38度線を越えるとき、もちろん「ここが38度線ですよ」なんて線はひいてませんから「さあ、38度線を越えたか、さあ、越えたか」と必死になつて歩いたさうです。その時、向こうに外國人の兵士が「ああ、ソ連兵だ。もうだめだ(ソ連兵は、日本人を見つけると略奪暴行がひどかった)」と思ったとき「お人形さんのようなきれいな兵隊さんが立つてゐたの」(母)。そして、「もう大丈夫ですよ」とカタコトの日本語で。「助かつた~」と力が抜けたさうです。 戰爭はもちろんしてはならない。ぎりぎりまで。でも、もつと大切なことがあります。戰爭は敗けてはならない(つまり敗ける喧嘩はするな)。よく「戰爭の記憶を忘れないやうにしよう」とメディアが叫びますが、違います。「敗戰の記憶」です。
 もう一つ、我が國は、我が國の都合だけの戰爭はやったことはありません(近衛文麿・山本五十六のやうに、とんでもない官僚バカが國を滅ぼしたことは事實ですが)。

 では、つづきです。
 標題の「お母さんは日本の国に世話になっていない」は、脱出の実態を的確に表現している。

 地獄の北朝鮮から郷里の福井に帰るまで日本の国が救いの手を差し伸べてくれたか。助けてくれたのは、今まで戦っていた米軍(国)ではないか・・・。

 米国にはいくつもの傲慢な振る舞いが散見されるが、あのとき我が家族の命を救って食れた「恩」は忘れない。大抵の落ち度は水に流す。

 戦後は誰もが苦労したが、引揚者には日本の国(内地)に"踏みしめる大地"がなかったので、なかなかスタート台に立つことができなかった。

 生まれたのが昭和2年=明治60年。今年は明治150年。平成は30年(来年)で終わる。トシをとったなあ。いましばらくのお付き合いを希(こひねが)う。

※韓国人の私の旧友が、日本はなぜ1週間早く敗けてくれなかったのかと言う。
 ソ連の参戦が8月9日。15日(敗戦)マイナス7=8
 1日は役敗けていればソ連の参戦はなく、朝鮮半島の共産化はなかった。

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このページは、宝徳 健が2017年11月30日 03:23に書いたブログ記事です。

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