命の手紙 66(皇紀弐千六百七十七年十二月十四日 參)

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 九十歳の親父がくれる手紙を廣く殘すためにブログに書き綴つてゐます。昭和三十九年十月十日に思ひ出があるのでせう(笑)。昭和三十九年十月十日シリーズです。我が國の經濟的復興が本格的に始まった頃です。うれしいのでせうね~、父の世代からしたら。自分たちが戰爭で負けてしまったことで我が國に負担を與へてゐると責任を感じてゐる世代です。復興を何よりも喜んだのは昭和一けた世代ではないでせうか。
10月10日-新幹線・東京駅~新大阪駅‐開業
 福岡県京都郡(みやこぐん)犀川町(さいかわまち)にお住まいの中学校の吉永校長が、新大阪駅から新幹線に乗ってオリンピックを見に行くことがわかり(当時は大変な贅沢)、大阪でミニ同窓会。

 ボクは中学5年生の初めに、朝鮮人と喧嘩して相手を傷つけた。父に連れられて登校。吉永校長から「まことに遺憾ではありますが無期停学(硬派)を命じます」と宣告された。ボクは前科一犯である。

 品行方正・学力優等のボクが喧嘩をしたのは、朝鮮人の旧友の反日的言動を咎めたのではないかと、特別高等警察(特髙)や、憲兵の事情徴収をうけた。

 思想問題(反日)ではないことがわあり相手を傷つけた宝徳が制裁を受けた。喧嘩両成敗というが朝鮮人はお咎めなし。

 優等生が無期停学になるという特殊な例が生じた。戦後、京都郡犀川町のお宅に伺ったとき「あの時はやむをえなかった」と慰められて、温泉の一泊にお誘いいただいたいただいた。

 3年後、この新幹線に乗って静岡県裾野市に転勤することになるなど思っていなかった。

 この時はまだ新幹線・三島駅がない時代で、熱海駅で在来線に乗り三島駅に引き返していた。

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このページは、宝徳 健が2017年12月13日 20:35に書いたブログ記事です。

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