中小零細企業の事業承繼(皇紀弐千六百七十七年十二月二十日 參)

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 入院してゐるとき、だいたい遅くても朝四時になると、もう、そわそわ。參階にあつたコンビニに新聞が来るのがだいたい五時半。もう、いらいら(笑)。昔、新聞配達少年をしていたとき、六時に朝刊を配つても、もう玄関の前にで新聞を待つてゐる人が何人もいました。そして、言われました。「遅い!夕刊か!」と。うるせえ、親父だなあと思ひながら毎日皮肉を言はれてゐましたが、今は、その親父さんの氣持ちがよくわかります。

 十一月十九日(日)の産經新聞の朝刊を參考に何囘かに分けて記事を書きます。まだ、入院中ですね。五時半を待ちきれず、コンビニの前で新聞が來るのを待つて賈つたのですね・・・。

 今朝から、髙校のグループラインで、大騒ぎのラインが飛び交つてゐます。
 T君の
「おはようございます。店屋町の博多の有名な老舗蕎麦屋のひさやが店主の急逝で閉店。西日本朝刊にも載ってます。博多の名店がひとつ無くなりました。残念です。」

から始まりました。F夫人がそれに同調した後、E君が、西日本新聞の記事を紹介してくれました。

「老舗そば店のれんに別れ 福岡市「ひさや」 店主が急逝
12.19 06:00西日本新聞
 博多で71年間親しまれたそば店「古式生そば ひさや」(福岡市博多区店屋町)がひっそりとのれんを下ろした。店主の田中五郎さんが10日に86歳で死去し職人気質だった田中さんの味を守れる後継者もいないため。近隣だけでなく観光客にも愛された博多の味。妻の直美さん(80)は「せめて今年の年越しそばまで届けたかった。お客さんに申し訳ないが、今は感謝の気持ち」と話している。

 「ひさや」は1946年、先代の惣十郎さん、ひささん夫婦が開業した。
 高校を出たころから調理場に立つようになった田中さん。ウルメやサバ、カツオなどから取っただしに分量などのレシピはなく、日々気温などを確かめながら感覚で決めてきたという。

 看板メニューの天ぷらそばは、揚げ立ての海老天を入れるため汁がバチバチと音を立てて沸き立つほど。丸天を卵でとじた「A丼」は手ごろな値段と絶品のうまさに「ええ丼」と親しまれた。大みそかは毎年、年越しそばを求める客で大混雑し、店外まで伸びる長蛇の列は風物詩でもあった。

 そば店だけでなく、博多祇園山笠の土居流など地域活動でも活躍してきた田中さん。今月1日まで元気に働いていたが、同日夜、外出先で倒れ、10日に同市内の病院で息を引き取ったという。

既に出来上がっていた年賀状には、仲睦まじそうな店主の田中五郎さんと妻の直美さんの写真があった
 「もう年だし『今年までで店はやめようか』と話したところだった」と直美さん。臨時休業した店の再開を望む声もあったが、田中さんの"職人の勘"に支えられた味だっただけに「主人のそばは誰もまねできない。変に名を汚すより、きれいさっぱりとしたい」と閉店を決意したという。

 同じ土居流に所属し、近くでそば店「加辺屋」を営む山崎俊郎さん(81)は「仕事に厳しく、妥協しない人だったが、自分には兄貴のような存在だった。何とか『ひさや』の名を残したかったが」。福岡そば組合会長の稲垣真佐行さん(55)は「よく『舌を鍛えないかんばい』とアドバイスされた。本当の職人だった」と話した。」



 博多らしい記事ですね!!!

 岐阜に、さかゑやといふ、最高に赤飯がうまい和菓子屋さんがありました。
「◆素朴な赤飯愛され1世紀

 1920年に創業し、97年間にわたって餅や赤飯、和菓子の製造販売を手掛けてきた岐阜市真砂町の老舗「さかえや」が、7月末で閉店する。赤飯は昔ながらの製法にこだわった素朴な味が人気だったが、体力のいる仕事。3代目の鹿野勝也社長(75)が「元気なうちに店をたたみ、得意先などを同業者に引き継ぎたい」と決断した。長く守り続けた味を惜しむ声が、続々と寄せられている。

 鹿野社長の祖父が同市池ノ上町で創業、現在地に移って母が2代目を務め、鹿野社長は62年に引き継いだ。以来55年。妻とみ子さん(72)、弟の和彦さん(71)、和彦さんの妻田鶴子さん(65)と4人が中心になって店を切り盛りしてきた。

 先代から続く味を守ってきたことが誇りだ。赤飯は今も、ヒノキのせいろと竹のすのこを使って作る。「味を守ることは母の教えでもあった。味はお客さんの喜びにつながるので妥協はしなかった」。結婚式の引き出物に赤飯が定番だった時代は、一日に2千セットを出荷したこともあったという。

 もち米は、高山市丹生川町産の特選米。84年、素材の味を生かした控えめな甘さが特徴の「赤飯まんじゅう」を発売すると、店の看板商品になった。

 しかし、手作りにこだわった製法は力仕事を伴い、体への負担は大きい。「体力が追い付かなくなり、味を守れなくなる恐れがあった」。約1カ月間、眠れない日もあるほど迷った末に閉店を決断した。息子は2人いるが、「自分の道を歩んでいるから」と自分の代で幕を引くことにした。

 「悔いがないと言うとうそになるが、味を守り切ったという充実感もある」。6月上旬に得意先に閉店を知らせ、引き継ぎ先の紹介に奔走している。

 閉店を知った顧客らから惜しむ手紙やファクスが10通ほど寄せられた。中には昔を懐かしみ、涙する常連客もいた。「苦労はあったけど、お客さんや家族に支えられた幸せな仕事人生だった。感謝したい」と表情を緩める。

 閉店は今月30日。21日から閉店日まで連日、特売を行う。」7月1日の記事です。

写真:岐阜市の老舗「さかえや」7月末閉店


 岐阜に、つる天といふ、安くて最高にうまい、天ぷら屋さんがありました。おばあちゃんが孫と喧嘩しながら商売をしてゐました。ここで天ぷらを食べると、東京のあのバカ高い天ぷらを食べる気がしなくなります。

つる天 -

 數年前に閉店しました。悲しくて仕方がありませんでした。同じく岐阜のうまい天ぷら屋さん。藍亭。最近開いてゐません😢😢😢。大將がご高齢でした。

 もう、數年前になりますが、岐阜の柳瀬の奥のはうに、めんくいてい(漢字を忘れました。すみません)がありました。同じく大將がご高齢。

 食いものばかりなので・・・。岐阜に(岐阜ばっかり)、我樂多書房といふ、それはそれは、すごい古本屋がありました。何時間でも時間をつぶせます。「えっ?この本、こんな値段でいいの?」と云ふ驚きを何度も味わいました。ご高齢で閉店です。


 文化が失はれるんです!!!!!!! なんで、私が、もう、ひさやのそばをたべられないんだ!!!

 なんで私が、もう、さかゑやの和菓子と赤飯を食べられないんだ!!! 

 なんで私が、もう、つる天の、おばあちゃんと孫の喧嘩を觀ながら、うまい天ぷらをほおばれないんだ。ああ、悲劇!!!

 十一月十九日の産經新聞の記事のタイトルは「中小企業の廃業増加 「取引所」を整備し後継者探せ 論説委員 河合雅司」です。シリーズでかいつまんで紹介します。

 まさに私の仕事。できることを作らないと!!!!

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このページは、宝徳 健が2017年12月19日 20:39に書いたブログ記事です。

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