どの本よりわかりやすい南総里見八犬伝 再75(皇紀弐千六百七十七年十二月二十八日 四)

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 経営というものは、もちろんテクニックやスキルも必要です。でも、最近の企業に力が無いのは、人間的な情緒が薄れているからです。情緒豊かな日本の文化もたまには感じてください。

 さて、船虫のたくらみをみごとに交わした小文吾です。船虫が兵隊に捕まったところまででした。

仁:犬江親兵衛(いぬえしんべえ) 犬田小文吾の妹ぬいの子供
義:犬川荘助(いぬかわそうすけ) 大塚村で蟇六・亀篠夫婦に雇われていた額蔵


忠: 犬山道節(いぬやまどうせつ) 浜路の兄。不思議な行者。
信:犬飼現八(いぬかいげんぱち) 大塚村の信乃の隣に住んでいた糠助の子供。古河で、 信乃と対決して一緒に行徳に流れていった。
孝:犬塚信乃(いぬづかしの) 大塚村の番作の子供 浜路の許婚
悌:犬田小文吾(いぬたのこぶ んご) 行徳の旅籠屋の息子
 兵の隊長は、小文吾に詫び、千葉家への仕官を勧めました。

 たまたまこの地に狩りに来た千葉家の殿様は、尺八あらし山を取り戻したいきさつを報告されると、船虫を厳しく取り締まることを指示するとともに、小文吾を何とか千葉家へ奉公させるようにとの指示も出しました。

 ところがところが、それを一任された千葉家家老は、おもしろくありません。自分の耳に入れずに、隊長が直接殿様に報告したからです。しかし、小文吾のことは後にして、船虫という曲者を、村長の家になどに拘束していては、何が起きるかわかりません。すぐに、城に引っ立てるように、隊長に命じました。

 隊長は、尊重のところに急ぎますが、村長のところに着いたとたん、村長が「えっ、あなた様の使いと申す者たちが、船虫を連れて行きましたよ」・・・・。家老の心配したとおりになりました。

 隊長は、どうすることもできなく城に戻りましたが、その失敗から投獄されてしまいました。小文吾はどうなるのでしょうか。そう、この家老もなかなかの曲者なのです。つづく。

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このページは、宝徳 健が2017年12月27日 23:29に書いたブログ記事です。

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