つれづれなるままに(皇紀弐千六百七十八年一月二十四日 弐)

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 産經新聞は、面白いときとそうでない時がはつきりわかれますね(笑)。今日のは面白い。

 十八面が先ほどの あべ記者の拉致の記事。十九面がすごい。大好きな、曽野綾子さんが右上。
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 右下が、これまた大好きな 山谷えり子参議院議員。
「山谷えり子 写...」の画像検索結果

そして、左側の正論が 平川祐弘先生です。
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平川先生に100%私淑してゐるわけではありませんが、今日の記事は歴史がきちんと整理してあるので、とても勉強になります。


 山谷さんの書かれてゐることはとても大切なことですが、はつきりと書けない辛さがありますね。「婦道」。我が國を支えてきたのはこれしかありません。馬鹿な男たちを素晴らしく變軆させ、そして、サポートしてきたのは女性です。婦道です(失はれてしまひましたが)。

 男女平等。ありえへんし。男女差別はいけませんが、男女區別があたりまえです。それに、我が國は、世界で一番男女差別がない國でした。といふか、女性優位の時代のはうが長い。

 曽野さん。この人いいですね~。曽野さんの文章を讀むでゐると「宝徳さん、あなた、そんなことどうでもいいのよ。面倒くさいことばかり云ふ人ね~」と云はれさうで。

 今囘も、だれも言へないやうなことを書いてゐます」

「着物をレンタルする「はれのひ」なる業者の一種の詐欺事件を見ていると、成人式の主な目的が晴れ着を着ることにあったお嬢様たちがたくさんいたようだ。20歳にもなったら、もう七五三の時のような幼稚な楽しみはやめて、人間として自分を一人創る人生に目的を切り替えた方がいい。晴れ着がどうしても欲しかったら、前々からアルバイトをして百万円貯めて自分で買うほうがいい。卒業の日までにするべきことは、一生つ続けてもいい好きな道を明確にすることだ」

 大賛成~。

 さて、平川先生。書かれてゐる記事に(前略)も(中略)も(後略)も無視してみていきます。解説を加えて。「  」が平川先生です。

「1911年彼ら(支那人)は、武漢で清朝皇帝を退位させ、孫文が中華民国の臨時大総統に選ばれた。中国維新は成するやに見えた。」

 まあ、孫文など辛亥革命の間は、アメリカで遊びまくっていました。日本人の金を使って。

「だが、北京での軍の実力者、袁世凱が立ちはだかる。中国の伝統に深く根ざしていない孫文は非力で、大総統職を袁に譲らざるを得ない。すると袁は中国には西洋的な政治体制は合わないとして、自分を中華帝国大皇帝に推挙させた。晩年の毛沢東が秦の始皇帝のごとく振る舞ったことを思うと、帝政が大陸的統治の特色らしい」

 『統治』といふことばここでは適切ではありません。『支配』です。

「人民民主主義といいつつも北朝鮮では金王朝は3代目だ。シンガポールでは国父リー・クアンユーは、当初は北京訪問の際も英語を用い、近代国家を強調したが、結局は李光燿の"地肌"が出て、政権の世襲を図った」

 ここは、少し詳し目の解説が必要ですね。シンガポール人といふのは支那人です。歐米のアジア植民地時代、マレーシア(だけではないが)管理を任された彼らは、マレー人に麻薬を賣りつけてゐまし。マレーシア獨立後、支那人たちは、マレーシアからたたき出されてしまひま。でも、心優しいマレー人は、あの小さなシンガポールをあげたのです。そして、そこに、閉じ込められた支那人たちは、あの、醜く汚い支那人と見られないように、英語を話し、街をきれいにしたのでした。なんだ、支那人も、街をきれいにできるんじゃん(笑)。

 おつと、長くなりすぎた。つづきは明日。

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このページは、宝徳 健が2018年1月24日 09:33に書いたブログ記事です。

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