楠木三代考 7 最終囘(皇紀弐千六百七十八年四月二十三日 六)

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 この後、HPのブログに2通記事を書きます。夜になるかも。これは仕事の記事です。

 さあ、楠木三代考 最後の主人公です。正成(まさしげ)→正行(まさつら)→正儀(まさのり)です。楠木正成の三男です。

 正儀は、南朝の忠臣 楠木氏の棟梁でありながら、北朝に一時投降するなど、波亂の人生を歩みました。
 長兄 正行、次兄 正時が四条畷の戰ひで自害したため、十九歳の時(と考へられてゐる)に楠木家の家督を相續しました。

 河内を據點に南朝の主力として三度の強度奪還を果たすなど一時的にせよ南朝優位の状況を作りました。南北朝の統一に盡力し、實現寸前までいったこともありました。

 ただ、太平記は、父や兄に似ず愚かだと言ってゐます。今日と突入を繰り返してもすぐに取り返されることを憂慮した正儀は、愼重にならざるをえなかっただけなのですが。

 ただ、江戸後期の儒学者 頼山陽は「日本政記」で正儀について、「足利義満による南北朝の統一まで南朝が命脈を保ったのも正儀の深謀遠慮があったからだ」と記してゐます。

 なんによせ、敗戰後の 日教組による 誤った國賊教育を受けてきた私たちは、こんな力はありませんね。憲法違反である 邪教 日本國憲法「典」を創り直し、教育を元に戻せば我が國は世界があこがれる社會を創ることが出来ます。いえ、それができるのは、我が國だけであることを國民が知らないことが悲しくてしかたがありません。

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このページは、宝徳 健が2018年4月22日 16:41に書いたブログ記事です。

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