つれづれなるままに(皇紀弐千六百七十八年四月二十九日)

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 昭和の日・・・・。

 なんといふ名前を。繰り返し述べます。皇は、ふたつの意味があります。「すめらみこと」と讀むと今上天皇陛下のことを云ひます。「すめらぎ」と讀むと、皇祖皇宗以來永遠に續いてきたわが國のことを指します。

 昭和の日となると、昭和を懐かしむ日です。昭和天皇はそんなことを望んでいらっしゃいません。人間社會の奇跡である、唯一歴史が連續した國 日本。そのときに、たまたま天皇陛下でいらっしゃったことを祝ふのをお望みではありません。それであると「すめらみこと」を祝ふことになります。

 そうではなくて、永く續いたこの人間社會の奇跡をのなかで(すめらぎ)、たまたまそれがご自分であったことの「節目」を喜ばれてゐるのです。だから、昭和の日ではなく、「昭和節」です。11月3日も同じです。文化の日・・・・アホか。明治節です。

 言葉は正しく使ひませうね。 政教分離もさうです。
 歐州は、あの暗黒のキリスト教(カトリック教會主義)によつて、中世を暗黑の時代に叩き込まれました。宗教戦争等を經て、ようやく「異教徒も殺さなくてもいいじゃないか」といふウェストファリア体制(國際法の元)が出來ました。だから、おい、宗教よ政府のやることに口を出すなといふ、「政府」と「宗教」の分離を「政教分離」と云ひます。だから、靖國を政治家が參いつても、政教分離にはなんの關係もないのです。それなら、公明党が政權に入ってゐることを論じなければなりません。

 まあ、我が國は、信長が宗教を徹底的に叩いてくれたので宗教戰爭はおきませんでした(笑)。あの頃の宗教は莫大な財力(中央銀行と言ってもよいぐらい)、軍事力を誇ってゐました。

 シビリアンコントロールもさうですね。他國との關係を「戰爭」「外交」のどちらでやるかを文民が決めることをシビリアンコントロールと云ひます。軍人のマネジメントを文民がやることではありません。

 國家議員と云ふのは馬鹿ばかりですね。さういふ人間を通す國民とは、いったいどんな頭をしてゐるのでせう。


 今日まで、七十二候 穀雨 末候 「霜止出苗」です。「しもやみてなえいづる」と讀みます。

 暖かくなり、霜も降らなくなつて、苗がすくすくと育つ頃です。田植えの準備が始まり、活氣にあふれるころです。


 この本はぜひお讀みください。
歴史とはなにか (文春新書)

 この本が745圓で讀めるなんて。岡田先生はスゴイ。この功績を私たちは後の世代に繼げることができるのだらうか??? 


 今日から九州。盡力します。

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このページは、宝徳 健が2018年4月29日 10:06に書いたブログ記事です。

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