2018年6月アーカイブ

 人が來たので、扇を交換して別れた光源氏と女性でした(20170303)。

「すてきな人だつたなあ」
 弘徽殿(こきでん)で會つたのですから、右大臣家の娘です。しかも若い。五番目か六番目。

 みなさん、覺へてゐますか? 光源氏の正妻 葵の上は、左大臣の娘です。左大臣と右大臣は政敵です。

 そして、弘徽殿の女御(こきでんのにょうご)は、光源氏を憎んでゐます。
 中国古代、戦国時代の人間模様が書かれた「戦国策」を紹介しています。たまらなく面白い(20100607)。

 中国史上最大の暗殺未遂事件です。荊軻(けいか)による秦の始皇帝暗殺未遂事件です。史記にも載っています。

 燕の太子・丹が準備を整え、いよいよ荊軻が秦に乗り込む時がきました。
 さてさて、はじめましょう。アジブと四十人の美女です。長いので、何回かに分けて書きますね。息子が小さい時、夜の寝物語で、好きだったのは「古事記」と 「アラビアンナイト」でした。なつかしいな~。「お父さん、一緒に寝よう。何かお話して」と言っていた彼が今は私の身長をはるかに追い越しています。
 まあ、定年後の再就職先ではおとなしくしていればいいものを(笑)。まあ、だから父なのですがね。

 明日、九十一歳になる父が定年後の再就職先で大暴れをします。まさに、サイレント役員(役員は言ひ譯をしない)ですね。
 髙校時代は1年6組、2年6組、3年1組(理系)でした。1年は中村先生(數學)、3年は犬丸先生(體育)、2年・・・・・覺へてゐません。

 同窓會などでみんなと話をしてゐると、髙校時代をエンジョイし、だからこそ、よく覺へてゐるんですよね~。誰と誰が付き合っていたとか、何組の誰と一緒だったとか。私は、中學が區域外の上、テニスばかりしていたので、髙校時代の思ひ出と云へば、テニス以外は、とにかく腹が減って仕方がないといふことしかありません。早弁もよくしてゐました。

 母がいつも「お米が60キロあっても1か月もたない!」と叫んでゐました。五人家族です。ものすごい大きなタッパふたつのひとつに米をギューギュー詰めしてもらいます。もうひととはおかずを山盛り。それでも、カバンの中に横に入れて持っていくので、上部に隙間ができます。食べるとき、悲しくて悲しくてしかたがなかったのを覺へてゐます。帰って、母に「隙間ができないように詰めて」といふと、「これ以上はもう入らないわよ」と云はれました。パン食の時は母は、あのながーーーーい、一本の食パンをすべてサンドイッチにしてくれます。

 さて一時間目の休み時間10分。食堂に行ってパンと牛乳。二時間目の休み時間10分。母の弁当、三時間目の休み時間25分(食堂でカレーライスと定食とラーメン)、四時間目の休み時間35分 昼寝、五時間目の休み時間10分 食堂でパンと牛乳。部活終り パンと牛乳かうどんかラーメン。家に帰って、どんぶり飯4杯でした。朝飯ももちろん家で食べますから1日7食。テニス以外ではいつも食べることばかり考へてゐました。とにかく腹が減りました。

 閑話休題。秋の新人戰 中部地區大會が近づいてゐます。相手は、2年生(3年は引退している)。こちらはきちんとした硬式テニス歴がまだ半年を經てゐません。それも勝つ。と、思ひ込んでゐます。

 この頃から3年生に勝つようになってきました。この記事は、十七歳當時の私と対決してゐるので、すべての日誌をご紹介してゐるわけではありません。彼と勝負出來る内容の時の日を書いてゐます。

 では、日誌を。
 
  今囘は、深見君。前囘書いた、私のビンタがまだ効いているそうです。今だからカミングアウト。40メートル奪取は、10本ぐらいしたら許してあげやうと思つてゐたのですが、練習をしていたら忘れてしまって・・・。「しまつた。もういいという指令を出していない」と思つたときはすでに四十本。みんなごめんね。

 OBの川鍋さんが來られてゐます。私は、主要OBに毎月20~30通の手紙を書いてゐました。部活の状況、試合の戦績、新メンバーの紹介などです。書いていたのを知っていたのはマネジャーの生田さんだけです。他の部員には同級生にも言ったことがありません。努力してゐる姿を人に見られるのがはづかしい時代でした。

 OBの方々には本當に支へていただきました。特に川鍋さん、山口さん、野村さんは頻繁にご指導にいらしてくださいました。感謝しております。
 明日、七月一日は、親父の誕生日です。昭和二年(明治六十年)七月一日。昔の男たちは、常に國家に對する死生觀がありました。すごいですね。

 福沢諭吉先生は、

一身独立して一国独立す(一軆獨立して一國獨立す)
国を支えて国を頼らず(國を支へて國を頼らず)

と仰いました。明治の男たちの氣概です。なんとまあ、私たちは情けない。

 女性には婦道がありました。決して女が男に女を求めませんでした。強い國づくりができました。
 この記事から明日のルーティンです。明日から七十二候 夏至 末候 半夏生です。「はんげしょう」と讀みます。
 ひさしぶりの掲載です。貞観政要のテーマは「守成は創業より難し」です。コンサルティングをやっていくと、本当にこれはそうだと思いますね。企業を維持して行くことは素晴らしい仕事です。だから、企業の第一の使命が「ゴーイング・コンサーン(継続企業)」なのでしょう。

 今日のテーマは「政を為すの要は人を得るに在り」です(20090810)。

深き夜の あはれを知るも 入る月の おぼろけならぬ 契りとぞ思ふ

 ある女性が「朧月夜に・・・」と呟きながら來たのに對して、そふぇをうけて「こんな月夜のあはれを知るあなたは、入る月とも深い契りがあつてのことでせうね」と問ひかけたのです。「入る月」は、もちろん忍び込んできた光源氏自軆のことです(20170226)。
 荊軻が燕の太子・丹の願いを聞き入れ、丹は荊軻に最高に贅沢な生活を与えたところまででした(20100606)。

 史記にも書かれている戦国時代、最大の刺客、荊軻(けいか)による秦の始皇帝暗殺事件です。
 明日、七月一日は親父の誕生日です。昭和二年(明治六十年)七月一日。なんと

九十一歳です

 先日両目の白内障の手術をしたら「よく見える」と喜んでました。まだまだ元氣です。

 さて、定年後再就職した會社で大暴れの親父です。
 明日から博多は山笠ですね~。もう、博多ののぼせもんたちは、仕事どころではなかろうね(笑)。七月一日から十五日まで。

 高校時代の友人が、本格派ばい。大黒流ればい。大黒流れの非売品の扇子をくれたっちゃん。これはレアものばい!!!。かなりの價値があります。たまらんめいが。うれしか~。

博多の男たちよ。もえんしゃい!!



(友人より:私の還暦祝いです。)
博多人形師として最年少で伝統工芸士になった若手有望株。下絵の武者絵上手よね。
貴兄の記念年の扇子の出来が良くてホッとしてます(笑)

われともにあり
被災地朝倉へのメッセージです。
人形は初代秋月藩主黒田長興。
字は承天寺の和尚。
人形師は西山陽一。
博多人形師として最年少で伝統工芸士になった若手有望株。下絵の武者絵上手よね。 貴兄の記念年の扇子の出来が良くてホッとしてます(笑)
 來月 七月十日は、母の命日であり、弊社創業記念日です(十七周年)。先日紹介した、福岡縣糸島市にある
私のお酒
で、こんな記念ボトルを創ってもらいました。焼酎で。


 左が姉私妹と母の寫眞。右は今の私です。出来てくるのが樂しみです。

 私のお酒は素敵ですね。
 小學校三年生で静岡に轉校したところからでしたね。

 二學期になつて、友達が出来て樂しく過ごしてゐました。

 ある昼休みに、友達と縄跳びをしてゐました。二人がまわして何人かが飛ぶやつです。隣のクラスの先生(女性 若い)と生徒が鬼ごっこをしてゐました。先生が逃げまわるとき、縄跳びをまわしてゐる私を逃げるときのつっかえ棒のようにしました。おかげで、縄跳びがまわらなくなり、みんなが跳べなくなりました。私は、ムッとした顔になり、先生をにらみました。すると、

「なんだその顔は!!!」と

 わたしを捕まえて、ビンタをしまくりました。ニ十發は叩かれたと思ひます。

「謝れ!」

 と叫びながら。謝る理由が見つかりません。「(あやまるのは先生だろうが)」と思ひながら耐へてゐました。それがまた氣に入らなくてニ十發以上になつたのでせう。唇の上を切りました。口の中も血だらけです。でも、當時は、家に帰つて「先生に殴られた」などと言はうものなら、また親に怒られます(笑)。「お前が惡い」と。

 後で聞いたら、その先生は、うちの担任の先生とあまり仲がよろしくなく、担任の先生が私をかはいがるのが面白くなかったそうです。坊主にくけりゃ袈裟まで憎いってか~。

 後日、體育を見學してゐる日がありました。もう一人男の子が見学學をしてゐました。その極惡教師手があいてゐました。極惡教師が、もう一人の男の子に「宝徳君と三人でサッカー遊びしない」と云ひ、その子が私に傳へに来ました。私は「(よく言ふわ)」と拒否しました。さびしそうな顔をしてゐましhた。少しは反省をしてゐたのでせう。若くてくれいなせんせいだつたのになんてことでせう。名前を思ひ出しました。今。芹沢先生です。もう五十年前のことですからいいですよね。(笑)。

 では、軆體が弱いくせに氣だけは強かった。宝徳小僧の日誌を。間違えてゐました。私は十五歳ではなく十六歳でした(中學浪人)。そして、けふの日誌は、誕生日を過ぎてゐますので、十七歳です。
 今囘は、碇くん。

 ひどいキャプテンですね~。今なら完全に出場停止(笑)。一年生全員にびんたをくらはしてゐます。

 他校生と喧嘩はするわ、學校帰りに酒は飲むわ。下級生をぶん殴るわ。おおらかな時代でした。でも、私は男の子を育てるならあのころの環境の方がいいと思ってゐます。スケールが大きく育つ。

 さあ、私の横暴ぶりをにてください。
 今日は「上書は激切多し」です(20090628)。
 第八帖 花宴(はなのえん)に入つてゐます(20170130)。

 藤壺のことを書いてきましたが、若紫も少しずつ成長して華麗さを増し、光源氏とのむつまじさがほほえましくも微妙に變じていくことがこの帖につづられてゐます。

 さて、宴のあと人影も消えた夜更けに光源氏は、なんとか藤壺にあへないだらうかと、館の周りをさまよいます。どの扉も閉じてゐてダメですが、すぐ近くに弘徽殿の細殿があり、そこは戸口がひとつ開いてゐます。そっと忍び込むと中は寝静まつてゐます。
 中国古代、戦国時代の人間模様を書いた「戦国策」を紹介しています(20100605)。

 さあ、戦国時代最大の暗殺事件の首謀者、荊軻(けいか)の登場です。田光(でんこう)先生は、燕の太子・丹に疑われたのを苦に、自害してしまいました。
 以前、このシリーズは書いていたのですが、一時期、このブログが壊れて、その間の記事がなくなってしまつてゐます。なので、もう一度書きますね。これはおもろいですよ。普通の字で書きます。

 千夜一夜物語。別名アラビアンナイト。懐かしいですね。アラジンと不思議なランプ。シンドバッド、アリババと四十 人の盗賊。どれも、子供の頃、胸をドキドキさせながら読んだ本ですね。これらがアラビアンナイトだとは当時は知りませんでしたが。

 子供が小さい頃、このアラビアンナイトを寝物語で話してあげていました。古事記とともに彼のお気に入りの話のひとつです。もちろんエッチな表現は除いて話しました(アラビアンナイトは、かなりエッチです)
 六十二歳の時の親父が定年後再就職しました。なんと、建設工事現場で實習をやると言ひ出してゐます(笑)。
 話の時間軸を小学校三年生に戻しませう。私は小學校三年生の一学期まで、大阪府枚方市立殿山第一小學校にいました。校歌がとても素敵でした。

♪渚の院の花ふぶき~♪ 今でも歌ふことができます。素晴らしい歌なので、小さな子供の頭にもきちんと残るのでせうね。

https://youtu.be/uW1E_DDdLgc

 我が國の歴史を歌にしてゐます。みなさん、ここで我が國教師にどれほどくだらない人間が存在してゐるかを紹介しませう。

 今、殿山第一小学校のHPには、校歌の記載がありません。我が國がすばらしい國だといふことになると困る奴らがたくさんゐるのです。ご紹介したユーチューブを掲載した人のコメントがあります。「個人的に載せているので学校には問い合わせないでください」と。

 悲しいですね。こんな言葉を載せないといけないなんて。

 小學校三年生の一学期の最終日に轉校しました。静岡縣駿東郡裾野町立裾野東小學校です。だから、その夏休みは暇でしかたがありませんでした(友達が誰もいない)。

 二學期にある事件がおきました。次囘のお樂しみ(笑)。

 さて、はづかしい日誌です。
 
 今囘は山本君。 新キャプテンが森君に決まりました。

 それと、私たちの代は、他の部と自分の専門種目以外で試合をしたとき負けたことがありませんでした。例へば、野球部とバスケットをやる   などです。なのに、森の代は、映研なんかにソフトボールで負けてゐます。処罰ものですね(笑)。
 唐の二代目 太宗の行った治世が貞観の治です。徳川家康も参考にしています。そのことについてかかれたものが「貞観政要」です(20090622)。

 今日は、「何の代にか賢なからん」です。

 さあ、源氏物語は第八帖 「花宴(はなのえん)」に入ります。この帖はとても短い(20170125)。 

おほかたに 花の姿を みましかば 露も心の おかれましやは

 藤壺が、第八帖 「花宴」で。光源氏のりりしい姿を觀て思はず詠んでしまつた歌です。
 カウンセリングには三段階がありました(20110123)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする  リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。
 
 今日は、最終回です。平成22年8月25日から書き始めましたので、なんと5ヶ月間のロングランシリーズとなりました。みなさん、ご愛読感謝申し上げます。
 
 カウンセリングは項目が多岐にわたるような印象があると思いますが、基本は上記三つです。これを忘れないうようにしてください。
  中国古代戦国時代の人間の絶妙な生き方を描いた戦国策を紹介しています(20100604)。

 秦の始皇帝暗殺事件という、戦国時代最大の刺客の物語です。何回かに分けて紹介しています。

 燕の太子・丹は、側近から田光(でんこう)先生という人を紹介しました。丹は側近に田光先生に話してみるようにお願いしました。
 OPEC(石油輸出國機構)が、増産を決めました。おそらくそれを強く求めていたトランプの意向をくんだのでしょうが、100万B/Dだとしても需要の1%程度。まあ、「云ふことをきいたからね。あんたの顔を立てたからね」といふサウジアラビアを中心とした考へでせう。

 今日の讀賣新聞からです。2017年度の税収が58兆圓臺後半になるさうです。民主党政權の時には、38兆圓程度だつたので、なんと20兆圓以上も増収です。景氣に頼る増収が危險だと、財務省は増税をしたがりますが、もし、消費税だけでやつてゐたら5%増税をしたとしても10兆圓も税収は増えてゐないでせう。むしろ、減収になつていたと考へられます。デフレの時に増税をしてはいけないのです。消費税を上げるとしたら、インフレが過熱した時です。もし、5%から8%に増税していないければ、60兆圓はゆうに超えてゐたでせう。そして、GDP600兆圓もみえていでせう。来年の消費税増税はまだ絶對にだめです。我が國を壊したくなかったら。世界情勢を考へても我が國が經濟成長することは世界平和に貢献します。まず、歐米の眼が支那から日本に向きます。そうするとアメリカの輸出(最も彼らに賣るものがあることが前提ですが)が伸びます。支那はむちゃな經濟政策を發展途上國にできなくなり軍事力をはじめとした影響力が大幅に低下します。

 ひとつだけ、読売新聞に文句です。日本の新聞なら2017年度といはずに平成29年度と云ひなさい。
 親父が定年後 日本ファステムに入ったところからです。
 今日から明朝にかけて無理をせずに仕事に集中します。なのでブログがいつかけるかわからない。この記事から明日のルーティンです。

 今囘は、見好君。彼も退部しました。早くに退部した人は残念ながら覺へてゐません。

 今、日誌で十五歳の時の私に鍛え直してもらっています。そして、この若い大谷翔平さんにも。素晴らしい若者ですね。「先入観は可能を不可能にする」。確かにそうです。過去にこだわりすぎる人は、加納を不可能にし、そして、自分の人生を痛めていきます。良書です。
 今日は、「我が心は称(はかり)の如し」です。企業経営者の人事に対する心構えですね。太宗は皇帝になる前は、秦の王でした(20090615)。
 いよいよ藤壺が中宮になります。帝の寵愛はますます深まります(20170120)。

 面白くないのが弘徽殿女御です。帝は、自分の退位を考へます。さうすれば、弘徽殿女御が生んだ東宮が帝位を繼ぐのは必定です。帝は弘徽殿女御(こきでんのにょご)に「さうすればあなたは皇太后になるんだから」と宥めます。

 そして、光源氏は宰相のポストに就きます。藤壺が中宮として入内(じゅだい)する夜には、お供の役をおおせつかりま。 やっべえ~。

 でも、光源氏は「つらいな~」と。光源氏も辛いのですが、藤壺はもつとつらい。

 藤壺の子は、罪の子。でも、絶世の美男美女 光源氏と藤壺の子供です。成長するにつれて、それはそれは美しく育つていきました。光源氏のやうにあでやかに、さながら天に月と日がふたつながらのやうに輝いてゐるやうです。

 さあ、源氏物語は、第八帖に入ります。こんどは紫式部のどんなしかけがあるのでせうか?
 カウンセリングには三段階がありました(20110121)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする  リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。

 最終章の「面接技法上のその他の問題」を解説しています。今日から「問題の焦点への敏感性」について解説していきます。

 中国古代、戦国時代の絶妙な人間のやり取りが書かれた「戦国策」を紹介しています(20100601)。

 燕の国の紹介がここしばらく続いていますが、燕の国の最終回になります。長いので何回かに分けて紹介しますが、戦国時代最大の刺客、暗殺未遂事件を紹介します。

 ほんの少しのずれで、秦の始皇帝暗殺が失敗に終わります。始皇帝は運も味方にしていたのですね。
 さあ、定年後に入った會社での親父の活躍です。
 何度も書きますが、この日誌は、本當にはづかしい。だけど、こんなに強く思ひ感じながら生きていたのですね。すべてを十五歳に戻すことはできませんが、この氣持ちを少しでも取り入れたい。

 中學1年生の時は原先生です。私は、自分が亂れたときに人生を救ってくださった先生が二人いらっしゃいます。お一人が小學校四年生のときの髙橋一三(かずみ)先生。もうお一方が、原先生です。

 まあ、こんな中學ですから、私もかなり亂れてしまひました。成績が極端に惡くなりました。ある日、理科教室に呼ばれました(原先生は理科の先生でした)。なんと、こんな私のために、ワンワン泣きながら生活態度や成績のことを整えてくれました。生徒のためにこんなに泣くことができる先生がゐるでせうか。

 これはいけない。先生を悲しませてはいけないと、次の試験では、トップ10入りしました(学年で)。

 人間とは、自分だけのためには頑張ることが出来ない生き物ですね。今でも人生の師の一人です。

 さて、はづかしい日誌をお讀みください。十五歳の私です。昭和五十年です。
 この記事から明日のルーティンにします。明日は大量に仕事がありますがうまくバランスを取って一つ一つ丁寧にやります。

 二十一日から二十四節氣 夏至です。夏至は昼間の時間が一番長い。つまり、今から日が短くなっていきます。陽から陰へと移っていきます。

 そして七十二候が 乃東枯です。「なつかれくさかるる」と讀みます。冬至の頃に芽を出した「靫草(うつぼぐさ)」が枯れていく頃です。色鮮やかな夏の花が開花するという時期に、枯れていく花に思いを寄せた、古人の優しさを感じる言葉です。

ウツボグサ
 少し疲労がたまりブログが書けずにすみません。

 今囘は、池見君です。かれの途中で退部しました。
 昨日の大坂地震はすごかったですね。ほとんど災害が起こらない大阪なので、みんな慣れていません。私は、8時難波發 名古屋行近鉄特急の出發を待ってゐました。津に向かうためです。

 電車がとても揺れました。最初は「なんと、下手な運転手だ」と思ひましたが、長く続くので、「あっ、これは地震だ」と思ひました。 しばらくすると地上への避難命令(近鉄難波駅は地下にあります)。

 地上に出ても、御堂筋線等地下鉄、在来線がすべてストップ。新大阪駅に回って名古屋経由で津に行こうかと思っても、タクシーは拾えないし、新幹線もストップ。移動もできません。
 今日のこの内容を理解していただくためには、漢の高祖劉邦のエピソードを知る必要があります。劉邦が天下を統一したあと、論功行賞が問題になりま した。劉邦は、蕭荷(しょうか)を最大の功労者とします。蕭荷は、戦争には出ず、武器食料などを、送り続け、常に漢軍を飢えさせることはありませんでし た。項羽には、こういう人材がいませんでした。常に勝ち続けた項羽が最終的に負けたのは、兵站の差であったといってもよいのです。

 劉邦のこの決断にとうぜん、戦場で命を はった将軍たちがいちゃもんをつけます。でも、劉邦は「狩りをするとき、獲物を追ってしとめるのは犬だが、その犬の綱を解いて指図するのは人だろうが。お まえたちは、逃げ回る獲物を仕留めたにすぎない。その手柄は犬の手柄だ。そこへいくと蕭荷は、お前たちの綱を解いて指示をしたのだ。つまり人間の手柄 だ。」といって説き伏せました。その劉邦の話が今回出てきます。

 タイトルは「賞、その親(しん)に私せず」です(20090601)。

 名前は覺へなくてよいのですが、どうしても紹介したい女性がゐます。「源典侍(げんのないし)」です。人柄もよく、才氣もあり、出自もよいのですが、とても好色なんです。十分に年を取つてゐるのに、その氣は衰えません(20170113)。

 光源氏は、好奇心をそそれら、冗談半分に誘いかけてみました。すると、典侍は、その氣になるではありませんか。
 カウンセリングには三段階がありました(20110117)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする

 リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。  最終章の「面接技法上のその他の問題」を解説しています。簡便法を実施するためのリレーションの形成の続きです。
 中国古代、戦国時代の人々の、絶妙な生きる力を書いた「戦国策」を紹介しています(20100531)。

 今日は有名なことわざ、「まず隗(かい)より始めよ」です。
 氣持ちいい~、書類も伝票も片付いた!!! さあ、つづきつづき。絶對に休憩しないこと。絶對に本を讀まないこと。

 さあ、親父の手紙です。親父のサラリーマン時代の定年の話です。これからしばらく生々しい企業現場の話がとても面白いですよ。
 連續して違う仕事を次々とこなすのはリズムづくりが大切。かういふブログを書いたり、伝票整理などの簡単な作業をしたり。一度休憩すると再開するのが大變。休憩するならブログを書いてゐるはうがいい。あと、私の場合讀書が危險です。ずつと讀んでしまひます。特に今、讀みたい本が棚から叫んでゐます。何冊も。「なんで、讀んでくれへんねん」と。
 
 小學校六年生の時の担任は、親戚の叔父さんさんでした(母の妹の旦那)。この人はバリバリの左翼だったので、(親戚なので嫌いではないけれど)あまり、私自身がなついてゐませんでした。それにやりにくくてしかたがありません。「なんで親戚が担任なんだ」とずっと思つてゐました。きっとそんな態度が日々出ていたのでせうね。

 立派な方でした。生徒を家に集めて習字を教へたりしてゐましたから。

 最後の思ひ出は苦いものです。(書道が得意な)先生が「色紙に好きな言葉をかいてあげるから云ひなさい」とクラス全員に云ひました。私は「勝利」と書きました。

 すると、渡された色紙の文字が「敬愛」になつてゐました。今なら、「敬愛」の本當の意味を知ってゐますが、當時は、先生も知らなかったのでは(笑)?とても意味のある言葉なのでいずれこのブログで解説します。

 話を戻して。なんだっていいんです。別に色紙が欲しいわけでもないのですから。だけど、かういふのを設計主義と云ひます。相手の望みをかなへると云ひながら、自分の答えで對應する。

 親戚なので云ひませんでしたが、顔には出たでせうね~~(笑)。私だったらかういふ生徒には二枚書いて渡します。

 シリーズでこのブログに「カウンセリングの技法」を書いてゐます。「相手の 氣持ち と 行動の變容」がカウンセリングです。このやり方では子供の變容はあり得ません。

 教師が習得するマニュアルの中に「カウンセリング」はないのだらうか?

 あま、先生、特に當時の日教組バリバリ教師に私が好かれるはずもありませんね(笑)。内申書が惡くなるはずだ。

 では、偉そうな日誌を。
 この記事から明日のルーティンです。今日は種類の違う仕事がたくさんあります。また、事務処理や補助金の支給申請などもやります。クライアントのDDと計画づくりも。なので、仕事のリズムを變へるときや頭を休めたいときに不定期にブログを書きます。

 長井君です。彼は確か途中で辞めたんですよね。やはり、進學校で顧問も(いるにはいるが)、監督もコーチもいないといふのは、私たちに大きな負荷がかかつてゐました。これでマネジャーもいなかつたら部活は成り立たなかったでせう。
 
 それに加へて、私がインターハイに行くなどといふわがままを言ひだしたのです。リーダーが目標を示すのは組織として當たりまえなのですが、進學校のテニス部でそんなことを望んで入ってくる生徒が何人ゐるでせうか?しかし、リーダーは、一度示した目標は、いかなる状況でもやらねばなりません。しんどかつたなあ。でも、やつてよかつた。

 わが校でシングルスの決勝が行はれました。大會當日、中垣君の足がつったからです。はつきりもうしあげてこれはつらかった。私は大會當日に合はせてすべてのコンディションをピークに整えたからです。ピークの後は下降になります。實際、調子は惡かつた。でも、そんなことを言っていられません。

 試合後の練習で1周400メートルの運動場大回り5周を8分で走れと命じてゐます。2キロ8分。當時の私達にとっては樂勝です。
 今日は、仕事がいっぱい。さて、ブログは打ち止めにして仕事をします。

 鹿児島県出水市といふところは本當に食いものがうまい。蕎麦うまい。


 遇祥庵に連れて行っていただきました。

 少し面白いので整理しておきますね。

禺:大頭神異のもの まあ、何か神聖なものだと思つてください。
隅:神異の住む四晦(しかい)の地
嵎:そのやうな神怪の居る山嵎(さんぐう)
遇:神怪に遭遇すること
偶:そのやうな形の人かた

祥:めでたいこと 喜ばしいこと 吉事の前兆 ネへんは、神様に禱りをささげる時の臺です。羊はお供物。禱りを捧げてゐる状態の字です。

 つまり、この店は、神秘的なことに遭遇する喜びがある目出度い店といふことです。オーナーの教養が感じられます。
 今日は「諍臣(そうしん)は必ずその漸を諌む」です。諫議大夫とは、皇帝のそばにいて、諫言を呈する役割の人です。舜も禹も古代の理想の王です(20090525)。
 どこまで書いたつけ・・・? さうだ。藤壺が光源氏の子供を産んだところからでしたね。帝に寵愛される藤壺とその子供に、宮中の嫉妬の嵐が吹き荒れます(20180104)。

 負けてゐられるかと、藤壺は、氣強くなつて、産後の肥立ちもまずまず。元氣も囘復してきました。
 カウンセリングには三段階がありました(20110115)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする  リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。  さて、いよいよ最終章です。「面接技法上のその他の問題」です。今日は簡便法です。
 中国古代、戦国時代の人と人とのやりとりや駆け引きが書かれた「戦国策」をシリーズで掲載しています(20100527)。

 今は、燕の国です。今日のテーマは「漁夫の利」です。高校時代に勉強しましたね。

 先日、息子から、「お父さん、事務所の本棚には戦国策はある?」と聞かれました。国語の本に出てきたので、どんなものかみたいということでした。へー。
 父からの手紙です。新しい手紙が今日からスタート。今囘書かれてゐることには私も大賛成です。これを多くの日本人に云ふと、「そんなこと習ってゐない」「さういふ教育を受けていない」と恐ろしい言葉を吐きます。自分の日本人としての自覺の欠如ですね。まさに敗戰後の腐った「恐育」の賜物です。

 斷つておきますが私は子供の頃親からこんなことは教えられてゐません。日本人として當たりまえの話です。

日の丸の赤いところに字を書くな!!
 この日誌を書いてゐると、子供の頃のことがいろいろと思い出されてきます(笑)。

 私はどうやら昔から先生への反発がかなりあったやうですね。でも、ただ反発したわけではないですよ。「どう考へてもそれはおかしいだろう」といふときだけです。普段は品行方正な模範生(笑:自分で云ふな。違ふと思ふ)だつたのですよ。

 小學校三年生の時です。給食の脱脂粉乳が牛乳に變はることになりました。脱脂粉乳なんて飲めたものではありません。脱脂粉乳だけではなく、昔の給食はあれは人間が食べるものではありませんでした。

 それが牛乳に變はる。天にも昇る氣持ちでした。私たちに與へられた選択肢は、「白牛乳」「コーヒー牛乳」「フルーツ牛乳」でした。「毎日コーヒー牛乳が飲める!」私はもうウキウキです。

 先生からアンケート用紙が渡されました。「3つあるけど、かならず白牛乳に〇をつけること」と先生。私「おかしいではないですか? その理由を教えてください」先生「理由などない。云はれたとおりにやればいい」私「なら、こんな紙は必要ないではないですか?先生が白牛乳に〇をつければいいではないですか」。先生は、怒り心頭です。 別に白牛乳でもいいのです。じゃあ、なんでこんな無駄なアンケートをとらせるのかといふ不条理に腹を立てました。

 友人の一人が「お前、何にすんねん。俺はコーヒー牛乳や」と。その友達と二人で次の日はコーヒー牛乳に〇をして出すと約束し帰宅。父と母にそれを云ふと、笑ってゐました。何も云ひません。次の日に、紙を出すと先生が「宝徳だけが、コーヒー牛乳や」。 「裏切られた!!!」 友人はまともに私の顔を観ることができません。 私は立たされました。 なぜ立たされたのか五十年經った今も理解できません。

 えっ?牛乳はですって?結局 白牛乳です。怒られたこと、立たされたことが無意味です。

 まだまだ振り返ります(笑)。

 それでは日誌。



 今囘は谷口君です。福大の先輩ではなく、九大の先輩です。おそらく山口さん。私たちをインターハイに行かせようとしてしょっちゅう指導に来てくれました。確かインカレの選手です。それに、私も九大の練習によく呼んでいただきました。本當に感謝の氣持ちでいっぱいです。
特急 あそぼーい!

 九州新幹線に乘ると「Please」といふ雑誌がおいてあります。薄い本なのですが、これが面白い。六月號は、特急あそぼーい!が載ってゐました。JR九州は面白い。別府~阿蘇を走る電車です。

  新シリーズの再生版を書きますね。原文のまま添付しますが、一時、ブログが壊れていたときの記事があって、スタートから書けません。お詫びします。

 当時の宮中には、何千人という女性が太宗の生活のために仕えていました。絶対者である皇帝に跡継がなければ国が滅ぶからです。子孫を残すことも、皇帝の 仕事でした。時には一万人にものぼったといわれています。それはどう考えても無駄ですよね。たった一人の人間に何千人もの妻が必要なわけがありません(20090504)。

 太宗はこれをかわいそうと考え、三千人の宮女を家に帰しました。
 でも、残念ながら、太宗の死後、唐の宮室にはまた多数の宮女が召しだされるようになりました。六代皇帝玄宗の代はそれがもとで乱が起きてきます。有名な 楊貴妃ですね。

 さて、今日は「なぜ沈黙するのか」です。

 前囘は、紫式部がこれまで源氏物語に登場させた女性たちを、三つのカテゴリーで整理してみました。おそらく、この整理の仕方は、今まで誰もしなかつたと思ひます(エッヘン。<(`^´)>)(20161223)。

 さて、藤壺が、玉のやうに美しい子を産みます。光源氏の子供です。純愛と罪惡感の絡み合いです。
 カウンセリングには三段階がありました(20110111)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする  リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。

 今日から面接の終結に関しての問題点です。二つあります。ひとつは面接の長期化であり、もう一つは早期終結です。今日は面接の早期終結について。
 中国古代戦国時代の話をたまーに紹介しています。これも、もうすぐ終わります。今は「燕」の国です(20100525)。

 今日のタイトルは「伯楽の一顧」です。
 この手紙はここで終はりです。次から別の手紙を書き遺します。どんどんくるから追いつきません(笑)。

 captain last いいですね。昔の大和男児はかつこういい。

 Captain is the last man to leave the ship.
 この十五歳の日誌のタイトルでさへ笑つてしまふんのに、日誌の内容たるやなんたる生意気(笑)。

 書いてもしやうがない日は飛ばしてゐますのでご了承ください。

 私は昭和四十五年四月に静岡県駿東郡裾野町から福岡県遠賀郡芦屋町に轉校しました。小學校六年生です。

 怖かったですね~。あるとき、プール(海邊にあつた)に行って泳いでいると、むちゃな泳ぎをしてくる人とぶつかりました。O君といふ一つ年上(中學1年生)の人でした(そんなことはその時わかりません)。O君は學年番長です。ムッときた私は、少し文句を云ひました。

 すると、次にプールに行ったときに、大勢(20人はいました)の中學生にトイレに連れ込まれました。殴ったのはO君だけでしたが。恐怖で動くことが出来ませんでした。格好惡いですが、必死に土下座して謝りました。でも、ボコボコにやられました。「ああ、もう、今日は生きて帰れないなあ」と思ひました。

 ひどい顔になりました。家に帰りました。母「どうしたの?」私「階段で轉んだ」母「ふ~ん」。父も何も云ひません。おそらくわかってゐたのですが、軆體の弱い私を大人まで生きさせるために心を鬼にしたのでせう。

 姉からいつも怒られます(今も)。あんたはどんだけママ(姉と妹は今でもかう云ひます。私は六年生からお父さん、お母さんです)に心配かけたと思ひやうと、と。

 まあ、とにかくすごい街でした。髙校で博多に行ったとき、「博多とはなんと平和な街なのだらう」と思ひました。

 さて、偉そうな日誌もついでに讀んでください。
 今囘は境君です。そう、みんなから堺君と字を間違えられてゐました(笑)。
 今日から七十二候 芒種 末候 梅子黄です。「うめのみきばむ」とと讀みます。

 梅雨入りの今頃、梅の實に黄色がまざります。梅雨といふ言葉は、梅の實が熟す頃の雨といふ意味です。

 かつての私には、この時期に二つの樂しみがありました。

 同級生が送ってきてくれました。


 母校 福岡縣立福岡髙等學校 の本 福髙讃歌。ネクタイはプレゼントしてくれました。けふはこれをして出かけます。汚さないやうにしないと。

嬉しか~
 私の友人が、福岡県糸島市で「私のお酒」といふ事業をやつてゐます。オリジナルラベルを創ってくれて、焼酎などのラベルにして、この世で1本のお酒を創ってくれます。「私のお酒」で檢索してください。
 米朝首腦會談は、今、どうのこうのと云ふ時期ではありません。バカなメディアが、首腦宣言に埒が入らなかったと言つてゐますが、日朝首腦會談でもないのに入るわけがありません。それを云ふなら軍事力を強化しろと云ひたい。軍事力の後ろ盾なき外交などありえまえん。アメリカは沖縄にF22ラプターを8機ももってきてゐました。拉致した日本人を返さないと叩き潰すぞと云ふ外交をやらないと帰ってきません。會談の中でよくぞトランプが拉致問題に言及してくれました。

 さて、北朝鮮は核を放棄しません。それを軸として今後、米中が秘密裏に接近するでせう。怖いのは、表向き核放棄をやりながら、平和協定が結ばれ、在韓米軍が撤退することです。そして韓国と北朝鮮が接近し、北の核と韓国のF15イーグルが一斉に我が國を向くことです。

核保有の議論

を本氣でやらなくてはなりません。我が國の技術だと、すぐに核兵器は造れます。なので、議論をするだけで、とてつもない安全保障となります。もう目を覺ましませんか?

 ネガティブリストに切り替えて、軍隊として自衛隊を機能させてあげることも大切です。でないと、彼ら自身が危險にさらされます。

 最近、産經新聞が面白い。今の新聞の中では一番です。

 今囘は、これまで登場した女性を整理するのでしたね。繰り返しますが、源氏物語は、登場人物の多さで讀むのが困難になつてしまふことが多いのです。でも、系統をしつかり把握すればさう複雑ではありません(20161212)。

 まずは、なんといっても桐壺。光源氏の母です。帝と桐壺から光源氏が誕生します。小説の中では、すぐに亡くなるのですが、この人がスタートでありキーであることは間違ひありません。
 カウンセリングには三段階がありました(20110109)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする  リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。

 今日から面接の終結に関しての問題点です。二つあります。ひとつは面接の長期化であり、もう一つは早期終結です。今日は面接の長期化について。
 中国古代戦国時代のことを書いた「戦国策」を紹介しています(20100414)。

 殷が紂王の暴政によって滅び、文王、武王が軍師、太公望の力を得て周の国を建国します。その当時あったたくさんの国が、春秋時代を経て七つの国になってしまいます。

 秦・韓・魏・楚・斉・趙・燕です。

 さて、長く掲載してきたこの戦国策も、いよいよ最後の国、燕の話です。有名な刺客「荊軻(けいか)」の話もあります。燕の国は一番北にあります。悲壮なフィナーレを迎えます。でも、すっごい面白いエピソードがたくさんの国です。

 えっ?その七国がどういう位置関係にあるかって?

 一番西が秦、一番東が斉です。秦は長安ぐらいかな。斉は山東半島です。海の近く。秦と斉との間に、南北に魏「北」、韓「南」にあります。魏から北へ、趙→燕。韓から南に楚という感じです。



                燕
                趙
      秦         魏       斉
                韓
                楚

 おっと、本題「蘇秦の申し開き」です。蘇秦も懐かしいですね。

 紀元前333年、舌先三寸の遊説家・蘇秦は、燕を皮切りに趙・韓・魏・斉・蘇を歴訪し、西の強国秦に対抗する六カ国同盟(合従連合)を成立させました。でも、それも束の間、翌年には早くも足並みが乱れ、斉が燕の十城をかすめました。蘇秦はあわてて、斉の宣王に説き、十城を変えさせて再び燕の易王のもとを訪れました。どうなりますかねぇ・・・。
 つづきです。軍人とは恰好がよいですね。民間人よりよほど規律があります。軍隊とか軍人とか軍事政權とかいふと我が國ではすぐに顔をしかめる人がゐます。?が百萬個頭を駆け巡ります。さういふ人たちは、なぜ、支那の共産党を非難しないのだらうか。我が國の軍隊は有史以來 正義の軍隊です。
 そうだ。中學三年生の時、友達と勉強會を始めたところからでしたね。




 こんな街です。三池炭鉱から遠賀川で石炭を運ぶ最終地。川筋ものだらけで氣が荒い。ボートレースがあるから利權がたくさん。隣はごんだくれの若松。町長はやくざの子分といふとんでもない街でした(今は知らない)。先日、中學校から、「還暦同窓會」の案内のハガキが・・・・。どうしやうかなあ。

 航空自衛隊芦屋基地もあります。さうだ。ここに忍び込んだこともあります。近々、それも書かないと。

 さて、中學の勉強會はとても樂しくやりました。みんな、意欲的に勉強をして成績がぐんぐんあがりました(全員志望校に合格 私以外は)。今だから言いますが、この成績があがったとき、秦がものすごく嫌な顔をしたのを覺へてゐます。「寳德、お前いらんことするな」と云ひたげに。こんなのが教師をやつてゐたのですよ。ひどいものです。

 さて、私は、ウーちゃんと呼ばれてゐた少年と仲が良く、そして、彼が大好きでした。どうしてゐるのかなあ。次囘は彼のことを書きますね。

 さて、日誌。硬式テニスの初心者が、よく云ひますよね(笑)。赤面します。でも、これでいい。今の私にはこの意思に欠けてゐる。このイメージ力に欠けている。この思ひ込みを失ってゐる。


 今囘は中山君です。
男の子には喧嘩をさせよ

 最近、學校でも家でも「喧嘩はしてはいけない」と教へます。無意味な暴力はいけませんが、それでは、男の使命が果たせる人間になれない。男の唯一の使命とは、「女性と子供を守る」ことです。だから、力をつける、だから、勉強をする、だから、仕事をする。すべてこの一點です。強い弱いではありません。弱ければ弱いなりに戰ひ方を知るためには喧嘩が必要です。今囘の、新幹線の事件はひどすぎます。あんな野郎は公開死刑にすればいい。人を護ろうと命を落とした男性の方のご冥福をお禱りするとともにその勇氣に心から敬服します。

 何が起きるかわからない世の中です。私たちは「男の子が喧嘩の一つもできなくてどうするの?」と教へられ、喧嘩で負けたら家に入れてくれませんでした。

サイレント

 サイレント・ネイビー、サイレント・アーミーと云ふ言葉があります。「軍人は言ひ譯をしない」と云ふ意味です。東京彎で潜水艦や軍艦と漁船が接触事故を起こし死亡事故になつたことが何度かあります。メディアは自衛隊を叩きに叩きますが、海難事故として軍艦が惡いとなつたことはほとんどありません。無實になつてもメディは謝罪しません。

 そして、事故が起きた時、記者會見が開かれます。「猛獣」といはれる社會部がインタビューをするのですが、その内容がひどい。だいたい社會部はだめ。惡と言ってもいい。でも自衛隊側は、何の言ひ譯もしません。


 第七帖 紅葉賀(もみぢが)です。弘徽殿女御(こきでんのにょうご)は光源氏が憎くてしかたがありません(20161205)。

 そんな中、心を亂すのは藤壺です。藤壺も光源氏のパフォーマンスを觀て感動しますが、帝に「今日の催しは青海濤ひとつで完璧だつた。あなたはどうみたかね」

と問ひかけられて、「は、はい、素敵でした」答えるのが精一杯です。光源氏との關はりを隱すのに必死です。
 
 翌朝、光源氏から手紙がきます。
 カウンセリングには三段階がありました(20110105)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする  リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。

 前回から面接終結の方法です。終結の方法には三つあります。
  古代中国、戦国維持代の7つの国の外交・内政・軍事のことについて書かれた「戦国策」を不定期に掲載しています(20100330)。
 
 驚くことに欧州には、ナポレオンの時代でさえ兵法というものがなかったそうです。だから、ナポレオンもやたら兵隊を殺していますものね。アングロサクソンを中心とした彼らは、ただ科学技術が先に発展しただけです。物事の考え方や人との接し方は、確実に東洋(今の中国とかは除いてください)の方が進んでいました。私たち東洋人が世界の中心になっていたら、もっとよい世の中になっていたでしょうね。でも、相変わらず、西洋の物にあこがれる風潮があるようです。
 
 この戦国策はとても面白いですね。では、引き続き「韓」の国を紹介します。弱小国「韓」は強国の態度に一喜一憂し、外交の成否に運命をかけざるをえませんでした。襄王(じょうおう)の時代、楚の攻撃を受けました。さっそく秦に援軍を要請したのですが・・・。
 つづきです。帝國海軍はおおらかですね(笑)。
 自分の日誌を公開することは例へ十五歳の時の者であつてもとてもはづかしいですね(笑)。

 この時期は、ちやうど中學浪人の時期です。中學時代は、軟式テニスをしてゐました。筑豊大會で優勝して、縣大會に出場しました。まだ、インターミドルが盛んではなかったので、縣大會が最高峰の大會でした。

 野球部ばかりをかはいがりテニス部を目の敵にしてゐた、井上校長は、このときとばかり褒めてくれました。テニス部の他に縣大會に出場したクラブはありませんでした。

 そして、中学浪人のときに、硬式テニスを始めました。だから、まだ、初心者です。なのにこんなに偉さうに書いてゐます。顔が赤くなります。

 どうやら私は軟式テニスをしてゐる頃から硬式テニスが視野にはいつていたみたいです。將來の夢に「デビスカップをとる」と書いた覺へがあります。

 そうそう、秦との確執の件、次囘からまた書きますね。

 仲の良いやつらと中學三年生の時に勉強會(受驗にむけて)を始めました。まあ、他の生徒や先生から見れば、ちょっと怖いやつらもたくさん。特に當時、江藤君は、學校で一番強かった。「宝徳、勉強を教えろ」と、江藤君。それから勉強會がはじまりました。それが氣に食はない秦。スケールの小さな、女の腐ったようなやつでした。

 では、日誌。
 あらま、二年の小田君が書いてゐますね(笑)。
 第七帖 紅葉賀(もみぢが)を超譯してゐます(201611026)。

 朱雀院で行はれる宴會のために、事前に豫行演習が行はれました。そこでの光源氏のパフォーマンスが、あまりにも見事なので、帝をはじめ、観るものは感動の涙を流しました。

 ただひとり、弘徽殿女御(こきでんのにょうご)だけが、「神樣が聞いて神隱しにするわよ。ああ、氣持ち惡い」とけちをつけます。
 カウンセリングには三段階がありました(20100103)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする  リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。

 今日から面接終結の方法です。
 不定期に戦国策を紹介しています。中国古代戦国時代の話です。今は、韓の国を紹介しています。今日は「禍を造(な)して福を求む」です(20100322)。

 最大強国 秦に対抗する同盟は、いっこうに成果があがりません。そうこうしているうちに、韓の宣王が亡くなり、襄王(じょうおう)が跡を継ぎました。そこへ論客 張儀(ちょうぎ なつかしいですね~)が乗り込んできました。張儀は、合従連合(がっしょうれんごう)の論者 蘇秦が死んだ後、各国に秦との連合(連横:れんこう)を説いて頭角を現していました。

 韓は漢の高祖 劉邦の軍師、長良の出身地ですね。
 今囘は、藤瀬くん~。この人は覺へてゐません。すみません。なかなか面白いことを書いてゐます。俺、そんなに怖かったかなあ?
 昨日から、七十二候 芒種 次候 「腐草爲蛍」です。「くされたるくさほたるとなる」と讀みます。

 蛍が暗闇に光を放ちながら飛び交ふ頃です。蛍はきれいな水邊に住んでゐると思はれがちですが、蒸れて腐りかけた草の中で灯をともします。
 第七帖 紅葉賀(もみぢが)です。この帖は面白い(20161121)。

 文字通り美しい紅葉の季節に朱雀院への行幸が企てられます。

 弘徽殿女御(こきでんのにょうご)といふ源氏物語におけるとてつもないキーパーソンの名前を覺へてください。

 このブログでは、極力人の名前を避けてゐます。源氏物語を讀み挫折する人が多い一番の理由が、登場人物が多すぎて名前を理解できないのと、そして、その人間關係圖がわからなくなることです。

 まだ出ていない弘徽殿女御、弘徽殿女御、弘徽殿女御。いいですね(笑)!!!。
 カウンセリングには三段階がありました(20110101)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする  リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。

 面接後期の諸問題の三回目です。
 中国古代、戦国時代のことがかかれた「戦国策」を紹介しています。今日から、「韓」の国の逸話です。韓は、中国のちょうど中間にありました。そのため、列強に囲まれて外交政策に普請し、強くなれませんでした。韓非子はこの国出身です。韓非子は叫びました「外交ばかりに気をとられて内政の充実を忘れるとは!」(20100306)

 戦国七雄という言葉があります。戦国時代に生き残った七つの国です。秦、魏、趙、燕、斉、楚、韓です。その中で韓は一番早く滅びました。

 今日のテーマは「鶏口となるも、牛後となるなかれ」です。中学か高校の国語の教科書に載っていましたね。それと、ものすごく懐かしい名前「蘇秦(そしん)」が出てきます。この戦国策を書き始めの頃に登場した人物です。中国戦国時代のトップ外交官であり政治家であり。各国をまわって秦に対抗する六国同盟(合従連合:がっしょうれんごう)を実現させます。
 面白いですね~。私の三つの夢は名刺に書いてあります。

<3つの夢>
一、世の中の濁流の中で事上磨錬・愼獨を通じて自分を淨化し本來の人間の姿を創る
 -人に學び、生き方を學び、そして生き方を創るー

二、この生き方を通して、クライアントの事業の持續と永續に貢献していく

三、すべての人を愛せる人間になる

・・・・・全くできていないや・・・・

親父はすごいなあ。
 自分を振り返るといふのは樂しいものですね。過去の自分に感謝。
 
 IKさんの會社の理念は、「過去を尊び、今を樂しみ、未來を創る」です。ものすごくよい理念です。

 IKさんがいつも云ふのは「過去は尊ぶもので、こだわるものではない」です。こだわると、パラダイムに自分が縛られてしまひ、人間の成長が止まります。氣をつけないと。

 母は祖母と嫁姑の確執から、軆體をひどく壊してしまひました。最初に行った醫者が惡るかった。ステロイドを大量に投與され、命の危險がありました。全軆リウマチです。當時は、治療のしやうがなかつたのですが、まずは、このステロイドを抜く必要がありました。母は父に云ひました。「このままでは死んでしまふので、子供たちと一緒に九州に帰ります。申し譯ありませんが別れてください」と。父は「家族と一緒にいられない人生など考へられない、俺も一緒に行く」と答へました。父は、仕事が絶頂期です。給料袋をもらってくるたびに給料があがってゐました。給料袋を母に渡すときのあのうれしさうな顔(^^♪。

 毎月もらうときの母のびっくりした顔(^^♪。今でも覺へてゐます。それを捨てて、福岡へ。父は、なんとか仕事を探し再就職。思ふやうな仕事ではなく、「何度、家族に一緒に死んでくれと、言はうと思ったか」と後から聞かされました。

 私達、姉弟妹は、幸せです。こんな強い、父と母に育てられました。

 その時期は、本當に貧しかった。靴下は一足しかありません。帰ったらすぐに脱いで母に渡します。母は洗濯をします。でも、ミジメとかひもじいとかを感じたことはありませんでした。そんな中でも嚴しい父、子供のしつけ以外は宇宙のように廣く優しい母。おいしい、おやつと食事(あの家計の中でどうしていたのだらうか???)。これが本當の豐さなのでせうね。

 ある日、私が道端で50圓を拾つて母に渡したとき、目が輝いてゐました。それほど貧しかった(笑)。

 まだまだ、親には勝てんなあ。いくつになったら・・・。でも、だから、逆境に負けない自分ができました。母はいつも「勝て」とは云ひませんでした。「負けてはいけない」「人をうらやんではいけない」でした。ああ、十五歳の私にだけではなく、父と母の人生にもまう一度鍛えてもらふ必要がありますね。

 私は、息子にとってそんな父親になつているのだらうか?

 さて、Tennis Diary。中學浪人のぶんざいで、福岡まで(當時は、遠賀郡芦屋町に住んでいた)インターハイを観に行ってゐます。もう、自分がインターハイに行くといふ決心をしてゐますね。潜龍です。しかしまあ、硬式テニス初心者がよくこんなことを書いています(笑)。恥づかしい。福井さんとは、大學生になつてから運命の出逢ひがあります。
 今囘は深見君ですね。
 光源氏が、末摘花に懸想してゐるとき、光源氏の自宅 二条院では、若紫がすつかり寛いでゐました。少女から大人へ。どんどん美しくなつていきます。さすがに藤壺の姪です。美しさのレベルが違ひます(20161118)。

 光源氏と若紫は、ままごとのやうな遊びをします。光源氏が雛遊びに興じながら、髪の長い女を描いて、その鼻先に紅を塗ります(末摘花へのあてつけ)。
 カウンセリングには三段階がありました(20101230)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする  リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。

 前回から、面接後期の諸問題です。
 中国古代、戦国時代(秦の始皇帝が中国を統一する前)のことが書かれています。その中の魏の国を紹介しています。今日のテーマは「努力するほど失敗する」です(20100302)。
 つづきです。
 私は昭和三十三年八月廿日 午前7時36分に産まれました。自宅で。

 泣かずに産まれてきました。いはば、死産ギリギリでした。機轉をきかせた産婆さん(助産婦のことを昔はかう言った)が、私の足をもって逆さづりにし、往復ビンタをしたさうです。そうしたら泣いたとか。

 なので、小さい頃はものすごい虚弱体質でした。いつもビービーないて、母のスカートにつかまっていたさうです。父と母は「この子は、大人になるまで生きられないかもしれない」と話したとか話さなかったとか。

 なので、母は、私の男の子教育はとても厳しかったとか。親戚の人たちは「お母さんは、健ちゃんには嚴しかつたね」と云ひます。でも、私には 厳しさ<優しさでしたから、優しい母の顔しか思ひうかびません。

 そして、私がやることにブレーキをかけることはほとんどありませんでした(人間としておかしくなければ)。静岡県駿東郡裾野町(現 裾野市)に住んでいるときなど、一人で山奥に入ろうが、危険なところに釣りに行こうが、止められたことはありません。

 小學校三年生のとき、自轉車で轉びました。左ひざを見ると、何かちり紙のやうなものがついてゐます。なんだろうと思って引っ張ってみると、私のひざ下の皮と肉でした。骨がくつきりみえました。自轉車を引いて家に帰りました。「ケガした~」。まずは姉が出てきました。「またね?」と。でも私を見た次の瞬間、顔が青くなりました。

 すぐに病院に連れていかれました。まだ、あるのかな。鈴木醫院。手を膝のところに突っ込まれて消毒。麻酔はかけるもののまつたく効きません。ひと針縫うごとに激痛が軆體全體をかけめぐります。その時、母は、手術臺の私の頭のところにゐました。

「あんたは、男の子なんだからね!泣いたら承知しないからね!」

 ひと針縫うたびにどなられます(笑)。

 十二針縫い終わったときに。「泣かなかったよ」と母をみると目に涙があふれてゐました。「うん、うん」とうなづきながら。

 すこーしずつ、強くなって、中學校・高等學校と上がっていくと、どんどん強くなっていきました。本當ですよ。小學校三年生の時はまともに鉄棒の逆上がりもできませんでした。高校三年生では大車輪が出来ました。

 さて、なんか、日誌のブログが、人生の振り返りになってしまひました(笑)。もう一度、十五歳の自分に鍛え直してもらいたいから。

 中學浪人中です。このころから、インターハイ出場を意識しはじめてゐたのですね。福井選手とは、國内無敵の髙校チャンピオンです。インターハイ会場は福岡縣の東公園です。
 今囘は靏君です。一年生。この代は、非常に運動神經と運動能力に優れてゐました。彼もそのひとりです。だけど生意気(笑)。このぐらいがいいのですが、一度、絞めたことがあります。一列に並べて往復ビンタ。今だったら大變ですね(笑)。

 さて、どんなことを書いてくれてゐるかな。
 はっ、はっ、は~(笑)。ああ面白い。

 源氏物語は、これまで何人もの人が解釈を深め深めて千年經ちました。最初は譯がわからない源氏物語ですが、わからないままに何度も讀んでゐると、少しずつその、たまらない面白さが軆體中に入ってきます。不思議な書物です。この本なんてまさに、その研究の粋のやうなものです。





 
 光源氏がくどきにくどいてつひに登場した女性・・・。胴長で顔は青く、とりわけみつともないのは鼻、普賢菩の乘る象の鼻みたいです。長く伸びて垂れ、先端が赤い。顔もひどく長い。体は骨張つて、肩のあたりは痛さうなほどゴツゴツしてゐます。着ているものもセンスなし。ただ顔の形は美しく、とりわけ髪は黑々として長く、床に広がり溢れてゐます(20161105)。

 わ・わたしがこんなひどい表現をしてゐるのではないですからね(汗)。紫式部です。
「末摘花 イラスト」の画像検索結果
 カウンセリングには三段階がありました(20101228)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする  リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。

 今日から、面接後期の諸問題です。
 中国古代戦国時代の7つの国の外交政策を書いた「戦国策」を紹介しています。とってもおもしろいですね(20100205)。

 今は魏の国を紹介しています。今日のテーマは「韓攻撃は是か非か」です。
 今年九十一歳になる親父が自分の人生を遺そうと、定期的に手紙を送ってきます。それを、私は、ブログに遺します。

 海軍のつづきです。
 えっと、どこからだつけ? そうだ、秦と私の確執ですね。秦は英語の先生でした。だけど、英語はさっぱり。でも、そんなことはどうでもいいのです。

 當時は「スト權スト」と云ふ譯の分からないことを日教組がやつてゐました。教師のサラリーマン(といつてはサラリーマンに失礼ですが)化の始まりです。スト權を持たない公務員にストを認めろといふおよそ國家破壊的なことをやつてゐました。授業をボイコットするのですよ(笑)。お前らはビーバップハイスクールの逆バージョンかい。

 背広に「ストを認めろ」と云ふワッペンを貼ってゐました。襷も書けてゐました。

 なので、私も学生服いっぱいに、クリス・エバート、ジミー・コナーズ、ジョン・ニューカム、ロッド・レーバー、ケン・ローズウォールなどのワッペンを貼って登校しました。すると、秦が、

「寳德、きさん、なんばしよつとか!学生服のワッペンばとれ!」
私「授業をしない先生に云はれたくありません。先生かてワッペンば貼っとるやなかですか。先生がワッペンとつたらとりますばい。先生は生徒の鏡ですばい」
「きさん、なんばいいよつとか。おぼえとけ」

と、およそチンピラが逃げていくときの捨て台詞を吐きました。

さあ、秦との戰ひの始まりです。氣にくはなかつたんでせうね~(笑)。

 私は成績は惡くありませんでした。秦の英語など常に90點以上とつてゐました。

 どんな中學生? 次囘のお樂しみ(笑)。

さてと、おまけのような日誌を書きます。

 さあ、明日から九州出張です。ゆつくりね。體調を落とさないような出張の動きを作ることが課題です。

 今囘は、高橋博美くん。彼は今、福岡で辯護士をやつてゐます。
 インスタグラムに登録したばってん、いっちょん使い方がわからん(笑)。フェイスブックとツイッターは絶對に參加したくないのですが、なんかインスタグラムは氣になりました。ボチボチ覺へますか。
 もし、誰かが、「今、何が欲しいか」と聞いたなら。
①小村外交史 上下
②第一次世界大戦と日本海軍

です。中古市場で①は弐萬圓、②は壱萬圓です。今の私に本にそれだけかけるお金はない。

 これら讀まずして外交を語るな。

 さて、倉山満がまたやってくれましたね。

 学校では教えられない歴史講義満洲事変 世界と日本の歴史を変えた二日間
 紫式部とは、本當ににくい作家です。第二帖の雨夜の品定めで、今後、光源氏をはじめとした男たちが接する女性を想像させ、その後の展開に期待を持たせます(20101018)。

 この第五帖でも、若紫と光源氏が男女の仲になるまでにはいつてゐませんが、そのギリギリのところまで書いてゐます。そして、「ああ、この後、光源氏と若紫はどうなるのだらうか」と讀者に期待させてから次を讀ませやうとしてゐます。

 初めて源氏物語を讀んだときは、その登場人物の多さに壓倒され、すぐに斷念してしまひました。その次に讀んだときは、前に讀んだときの最初のストーリーパラダイムにこだわりすぎました。

 とにかく、源氏物語を讀むコツは、「心を虚しう」です。飛ばし讀みをしてもいいので、タンタンと讀みすすめる。

 さて、二条院(光源氏の住まい)に移り住んだ若紫です。
 カウンセリングには三段階がありました(20101226)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする  リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。

 面接中期の問題点の最後の部分カウンセラーへの個人的質問の部分を勉強しています。今日で、このパートが終わり、面接中期の問題点を締めます。
 前回から魏の話になっています。

 今日のテーマは「派兵要請の使者」です(20100110)。
 今年九十一歳になる親父の海軍時代の話です。生きる力がまったく違います。甘やかされてゐない。今の時代は、すぐに「かはいさう」と云ひます。こんなことで、あの共謀極まりない歐米人や支那人に對抗できるわけがありません。なにが國際化だい。笑つてしまひます。

 つづきです。
 この日誌のノートの裏表紙に書いてある言葉。「一日でも成長をしない日を持つことは許されない」です。私は今、十五歳の私にもう一度鍛え直してもらっています。なんと情けない。

 私が、大學に入學してからしばらくたつた時のことです。福岡に住んでいゐる姉が、電車の中で私の中學三年生の時の担任に会いました。秦 しん と云ひます(先生という称号をつけたくない(笑))。

秦「おお、寳德やないか。お前の弟は今、どげんしよっとか」
姉「ああ、秦先生、お久しぶりです。弟は今、慶應ばいっとります」
秦「はっ???!!! 嘘ばいいやんな。あいつが慶應やらいけるわけなかろうもん。見榮ばはらんでいいけん、本當のことば言ふてんやい」
姉「本當ですよ」

その日に姉から電話がありました。「ほんなごつ、頭のこようが。こげん言われたとよ」と。

 この、秦が私の最惡の内申書を書いた張本人です。でも、最初は恨みましたが、私は中學浪人をしてよかったと思つてゐます。高校の受験勉強をしてゐるとき「ああ、俺は、まだ、中學の勉強でやり残したことがたくさんある。このまま髙校に入っていいのだらうか」と強く強く思ひました(両親には申し訳ない氣持ちでいっぱいです)。

 神樣が、それをわからせてくれるために、秦を私の前に遣はしてくれたのです。

 しかし、一つだけ愚痴(笑)。中學浪人をして、次の受驗が近づいてきました。出軆中學に内申書をもらいにいかなくてはなりません。中學(遠賀郡芦屋町立芦屋中學校 惡の巣窟です (笑))の秦に電話をしました。「明日、17時に参ります」と。次の日、電車の遅延がありました。ダッシュで行きました。着いたのが17時5分。秦は私が遅れたからと、もう、帰っていませんでした。今は知りませんが、福岡縣は、日教組の力が當時、絶大でした。教師は、ほとんどこんなものでした。さあ、この品行方正(?)な私と秦との確執はどうして起きたのでせう(笑)。次回のお樂しみ。

 では、日誌の続きです。中野君とは、地域のテニスのエースです。中學の頃から硬式をしていました。中野君のいるクラブに私は入ったのです。今、どうしているのかなあ。會ひたいなあ。
 今囘は新一年生の山本君。さてさて、どんな記事かな。
 未明から起きて仕事していてゐました。いろいろな準備をしてゐたら時間を見落として、「あれっ?こんな時間」と出遅れました。いつもなら六時二分發の電車で明石に向かいます。1時間以上かかります。ラッシュに巻き込まれたくないので少し遅くに出ます。その時間を利用してブログを書いてゐます。

 家の近所の「萬味 まんみ」といふとてもおいしい支那料理の見店があります。
 今日から二十四節氣は 芒種 ぼうしゅ です。稻や麦など穂が出る植物の種を蒔く頃です。稻穂の先にある針のやうな突起のことを「芒 のぎ」と云ひます。雨が多くなる時期です。

 そして、七十二候は、芒種 初候 蟷螂生です。「かまきりしょうず」と讀みます。蟷螂の卵は秋に産み付けられ、そした、この頃、誕生します。
 
初草の 若葉の上を みつるより 旅寢の袖も 露とかはかず

 光源氏が若紫のことを思つて詠んだ歌です。この歌で、紫草を詠つてゐるので、この少女は若紫となりました(20161009)。

 光源氏は、押しに押します。若紫の後見人になることを。繰り返しますが、若紫は、藤壺の兄(かなりっ高い位)が愛人に産ませた子です。愛人は早死にし、祖母である尼君が育てます。その尼気味が亡くなってしまふのです。
 カウンセリングには三段階がありました(20101224)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする  リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。

 前回まで、面接中期の留意点の中の感情移転を解説しました。さて、いよいよ面接中期の最後の留意点です。カウンセラーへの個人的質問の続きです。
 中国古代、戦国時代のことを書いた戦国策を紹介しています。外交や交渉術に最適の本ですね。今日の内容もそうです(20100108)。
 親父の手紙のつづきです。徹底的に飲んだ   といふ後からです。
 さあ、恥づかしい(ずではなく「づ」のはずなんですがねえ)ブログ記事を書きます。私の十五歳の時の日誌です。題は、日誌のノートに書かれたタイトルです。

 髙校に入学した時、母と私と私の担任の先生との三者面談がありました(記憶では)。なんでも、私は福岡髙校に三番で入ったそうです。担任の先生が云ひました。「こんなに成績も良いし、素直で優しいのに、なんで、こんなに内申書が惡いのですか?」と。「これが昨年、髙校を落ちた原因ですか?」と。

 そう、私は、髙校受験に一度失敗して、中學浪人をしたのです。福髙には、一年後に入學しました。まっさらな制服に髙校の襟章をつけた同級生と、襟章がついてゐない學制服で髙校受験科の予備校に通ふ私。とても恥づかしかつた。せっかくですから、私の中學時代と髙校浪人生時代のこともあはせながら書きますね。
 
 この髙校浪人(當時は中學浪人と言っていた)時代は、私の人生に大きな影響(良い影響)を與へました。ただ、髙校に入って自分は一浪したとことをどうしても同級生に云ふことができませんでした。いま、カミング・アウト。みんなごめんね。
 
 では、はじめませう。

 浪人生なのに、運動不足になってはいけないと、母が一般の硬式テニスクラブに入れてくれました。私は、中學時代は、軟式テニスです。だから、この時はじめて硬式テニスをやりました。全く別のスポーツです。そのあたりから日誌は始まります。
 今日から、新しい部誌です。今まで書いていた部誌が新しいノートになりました。昭和五十二年四月二十五日~十一月十五日です。

 私たちがインターハイに行った年です。六月四日にインターハイ出場を決めました。その後は、部活の政權を弐年生に譲りましたので、あとは八月のインターハイに向けて調整するだけでした。

 なので、一年生のことはあまり覺へていないのかなあと思ひながら部誌を讀んでゐたら、結構覺へてゐました。もう、私たちの代が主役ではありませんので、氣樂に書けさうです。

 トップバッターは二年生の寺田君です。吉倉さんとは、私たちの一つ上の先輩です。

 「いとしるきほどにて、人々見たてまつりとがむるに、あさましき御宿世(すくせ)のほど心うし」・・・・・

 話は少し飛びますが、藤壺にはつきりと、つはりの兆候があらはれて、人々がみて問いただすやうになります。藤壺は、世の定めのあさましさに心を惱まします。懐妊です。光源氏の子を身ごもるのです(20161006)。

 やがて藤壺は、宮中に歸つて、「帝の子」として出産します。のちの冷泉帝(れいぜいてい)です。
 カウンセリングには三段階がありました(20101223)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする  リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。

 前回まで、面接中期の留意点の中の感情移転を解説しました。さて、いよいよ面接中期の最後の留意点です。カウンセラーへの個人的質問です。

 このシリーズも長くなりました。再掲し始めて4ヶ月ですね。あと1ヶ月ぐらいで完結します。

 いよいよ最終回です。いや~、長かったですね。途中で、わけがわからなくなった人もたくさんいると思います。でも、この膨大な八犬伝を、これだけ短くした功績は認めてください(笑)。

 何はともあれ最終回(20100524)。

仁:犬江親兵衛(いぬえしんべえ) 現八の妹ぬいの子供。一度 大鷲にさらわれた
義:犬川荘助(いぬかわそうすけ) 大塚村で蟇六・亀篠夫婦に雇 われていた額蔵
礼:犬村大角(いぬむらだいかく) 現八と出会った、妖怪に騙され ていた人
智::犬坂毛野(いぬさかけの) 小文吾が軟禁されているときに助けた女に化けていた犬士
忠: 犬山道節(いぬやまどうせつ) 浜路の兄。不思議な行者。
信:犬飼現八(いぬかいげんぱち) 大塚村の信乃の隣に住んでいた糠助の子供。古河で、 信乃と対決して一緒に行徳に流れていった。
孝:犬塚信乃(いぬづかしの) 大塚村の番作の子供 浜路の許婚
悌:犬田小文吾(いぬたのこぶんご) 行徳の旅籠屋の息子
 支那古代戦国時代のことが書かれた「戦国策」をシリーズで掲載しています。今日から魏の国です。魏は中原という中国の中心にあって、「天下の枢」と称されました。戦国初期、他国に先駆けて国内の改革に着手した結果、当時の最強国にのしあがりました。中原は文化もひらけていましたが、反面、戦乱に巻き込まれる回数も少なくありませんでした。魏はそれで、急に国力を消耗していきます。特に決定的な損害を受けたのは、斉との「馬陵の戦い」です(20100106)。

 さて、どんな物語があるのでしょうか。今日のテーマは「ムチャな話」です。
 このブログで何度も書いてゐますが、憲法とは、歴史・文明・文化・国柄等々です。それを文章化したものを憲法「典」と云ひます。だから、いまの邪教 日本國憲法典は憲法ではないのです。憲法ではない憲法典を憲法と呼んで、憲政の常道だの、立憲主義だのと言っても仕方がないどころか、盗人が作った法律を無理やり押し付けられてゐるだけです。このままでは、かつての素晴らしい我が國に戻ることなどできません。

 大日本國憲法の内容がどうのこうのではなく、あの未曽有の國難に、明治の先達がどんな思ひで国造りをしたかを知らなければそんなの政治家ではないし、そんな政治家を選ぶ國民は我が國には不要です。どうして小西を選ぶのか、どうして枝野を選ぶのか。どうして辻元や福島を選ぶのか・・・。私には理解不能です。いろいろな考へ方があつていい? 考へ方ではないのです。國を破壊する狂氣なのです。

國體を破壊する狂氣に對抗する力

それが保守です。國體を破壊する=憲法違反なんです。

橿原の 宮のおきてに もとづきて わが日本(ひのもと)の 國をたもたむ


 海軍のつづきです。
 この記事から明日のルーティンです。おそらく明朝はブログを書くことが出来ません。やはり、土日のどちらかが休み(?)ではなく、在宅勤務ができると助かります。きれいに仕事が整理できます。軆體も休められるし。

 さあ、このノートの部誌は今回で終わります。昭和五十一年九月三十日~昭和五十二年四月二十日の部誌です。

 私たちの誇りの日誌です。私たちには、コーチも監督もいませんでした。その中で全國大會に出場しました。本當に辛かった。髙校スポーツで指導者がいない。これほど苦しいことはありません。でも、勉強になりました。その後の私の人生の基盤が創り上げられました。いや、このころの方が光ってゐます。その光を忘れないためにブログに書き綴ってゐます。

 髙校入學時に、父と母に傳へました。「僕はインターハイに行く。インターハイが終はつたら死にものぐるいでべんきょうする。だから、それまでは成績には目をつぶってくれ」と。「インターハイに行きたい」とは一度も言ったことがありません。行かなかったら自分の次の日からの人生はないと思つてゐました。

 どんなに練習で苦しくても試合で敗けることよりはよほどましでした。だから、「もつと苦しくなれ、持つと苦しくなれ」と思ひながら練習をしてゐました。また、個人スポーツの團體戰とは髙校生がガバナンス出来る世界ではありません(特に全國に行こうとすると)。私はきつとみんなから恨まれてゐたでせう。

 さあ、このノートの部誌の最終囘。木下君です。運動神経に優れてゐました。私の次の次のキャプ連です。
 
 仕事の息抜きにブログを書いてゐます。ブログや手紙と云ふのは不思議な効果があつて、仕事が波に乘らないとき、少し時間をとつて書くと、仕事のリズムを創つてくれたり、思わぬ仕事のアイデアを提供してくれたりします。アウトプットとはさういふものなのでせうね。でも、これを書いたらまた仕事。20151005)。

 小紫といふ木があります。
「小紫 木」の画像検索結果


 紫式部といふ木より少し小ぶりで形が整つてゐます。
コムラサキ

 これが紫式部です。

 小紫は觀賞用としてよく庭に植ゑられてゐます。今の時期が旬です。雅な雰囲氣から源氏物語の作者の名前がついたのでせうね。

 さて、若紫と初めて出逢ひ、そのことばかりが氣になるまま、正妻の葵の上のところに來た光源氏です。
 カウンセリングには三段階がありました(20101222)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする  リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。

 面接中期の留意点の中の感情移転を解説しています。クライエントが示す感情転移の内容で多いのは、①依存性(甘え)、②愛の感情、③アンビバレンスです。今回は、③アンビバレンスです。

 このアンビバレンスは、カウンセリングの世界だけではなく、私たちコンサルティングの世界はもちろん、職場・家庭でもかなり参考になりますので、是非、お読みください。

 九歳の犬士 犬江親兵衛が里見義実を助けたところまででした(20100522)。

 ごめんんさい。なんと大きなミスをこれまでしていたのでしょうか。毎日載せている八犬士の名前に、犬江親兵衛の名前が抜けていました。

仁:犬江親兵衛(いぬえしんべえ) 現八の妹ぬいの子供。一度 大鷲にさらわれた
義:犬川荘助(いぬかわそうすけ) 大塚村で蟇六・亀篠夫婦に雇われていた額蔵
礼:犬村大角(いぬむらだいかく) 現八と出会った、妖怪に騙され ていた人
智::犬坂毛野(いぬさかけの) 小文吾が軟禁されているときに助けた女に化けていた犬士
忠: 犬山道節(いぬやまどうせつ) 浜路の兄。不思議な行者。
信:犬飼現八(いぬかいげんぱち) 大塚村の信乃の隣に住んでいた糠助の子供。古河で、 信乃と対決して一緒に行徳に流れていった。
孝:犬塚信乃(いぬづかしの) 大塚村の番作の子供 浜路の許婚
悌:犬田小文吾(いぬたのこぶんご) 行徳の旅籠屋の息子
  趙が滅亡する話を続けています(20100104)。

 献策が受け入れられない司空馬が討ち死に覚悟で秦と相対するので軍隊を貸してくれと趙王に申し出たところまででした。趙王はこれも拒否します。
 昨日の産經新聞は面白かった。今朝のはまだ讀んでゐません。明日は、かみさんの誕生日です。明日は、仕事でお祝ひができないので、今日、昼食を摂りにいきます。そのとき賈ひます。

 さて、昨日の産經新聞と息子からの情報も基に今日のつれづれなるままにを書きます。
 親父の手紙です。海軍のつづきです。

 この日誌もあと二囘分で終はりです。手元にある「かみさんが發見した」日誌は以下の通りです。

①昭和五十二年四月二十五日~十一月十五日
 ちやうど、今書いてゐる日誌の次です。私たちはインターハイで引退(事実上は六月四日のインターハイ 福岡縣予選終了後 ガバナンスを2年に譲った)しましたから、その後の日々のも載つてゐます。これは樂しみです。

②昭和五十二年十一月十八日~昭和五十三年五月十四日
 ①の続きですね

③昭和五十一年四月二十七日~昭和五十一年九月二十二日
 今書いてゐる日誌のひとつ前です。

④昭和五十年四月十六日~昭和五十一年四月二十四日
 これは、我らがマドンナ 生田マネジャーの字ですね。

 そっか、部誌をつける文化がまだなかつたのですね。最初はマネジャーがつけて(このころは前の代の小原キャプテンのガバナンス)、そして、私の代になってからつけ始めたんだ。

 今の日誌が終はつたら、①→②→④→③の順番で書いていきます。

 そしてなんと、私の日誌が四冊出てきました。これはテニス部のことももちろんですが、部活を引退してからの日誌もあります。ものすごく恥ずかしいけど、これもブログに遺しますね。本當に真劍に生きてゐた。そのころを振り返り、そのころの寳德健にパワーをもらひます。

①昭和四十九年五月二十三日~昭和五十年十二月二十一日:この本に自己を発掘せよ
 これは貴重です。私は一度髙校受験に失敗して中學浪人をしてゐます。そのころから髙校一年生の日誌です。これは面白い。
②昭和五十一年一月一日~昭和五十一年八月三十一日:一ずつ不可能を可能に
③昭和五十一年九月五日~昭和五十二年十二月二十五日:自然体
④昭和五十三年一月九日~昭和昭和五十四年三月二十五日:MYSELF(この後大学生)

 計八冊  お付き合ひくださいね。

 では、今囘の日誌は寺田君です。一年生女子マネジャーが入りましたね。郷原さん。彼女のお姉さんは私たちと同級生。結構みんなのマドンナでした。
 こんな發言、今では、確實にセクハラですね(笑)。
 先日、STさんと食事をご一緒したときに、以前、STさんにお渡しした本に「源氏物語は、もののあはれの文學」と書いてあることの話になり、とてもおいしい酒の肴になりました(20160930)。

 清少納言の枕草子は「をかし」の文學と云はれてゐます。ずつとずつと續いた我が國の感覺。それを本居宣長が「源氏物語の小櫛」で説いてゐます。本居宣長が我が國文化の發展に果たした役割も大きいですね。彼がいなかつたら、少し曲がつた文化になつていたかもしれません。古事記傳などは、その代表的なものです。正岡子規、井上毅も、我が國文化を救ひました。井上毅は、文化だけではありません。我が國そのものを救つた、我が國の救世主です。

 我が國は、危機に陥つたとき、必ずかういふ救世主が出てきます。でも、今の學校教育では、彼らをそのやうに扱ひません。子供たちが勉強を好きになるはずがありません。

 さて、源氏物語に戻ります。光源氏は、「藤壺の姪なら」と、祖母の尼君に、後見を申し出ます。
 カウンセリングには三段階がありました(20101220)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする  リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。

 面接中期の留意点の中の感情移転を解説しています。クライエントが示す感情転移の内容で多いのは、①依存性(甘え)、②愛の感情、③アンビバレンスです。それをひとつずつ解説します。

 本日は、愛の感情です。
 趙の国の滅亡の続きです。趙王は司空馬に趙が滅亡から逃れる方法を聞きます(20110101)。

 ※鳩山政権の時に書いていた記事です。
 今囘は小田君です。
 今年、九十一歳になる父が、どんどん手紙を送ってきます。息子にも送っているみたいですが、息子は、とても克明に讀んでゐるみたいです。知らない土地などは、グーグルで調べたりして。じいちゃんとよく似たやつだ(笑)。

 父は、一昨日、白内障の手術でした。手術はうまくいったと妹から連絡。よかった。益々元気になりさうです。

 さて、つづきです。海軍のこと。
 世界の大學ランキングがどうのかうのといふアホらしいニュースをテレビでやつてゐました。新聞にも記事が載つてゐました。不勉強メディアの面々がさも、得意さうに、我が國の大學は創造性が足りないとかなんとか・・・(20160927)。

 今、ハーバードやMITに行つてどうするの? 支那人、朝鮮人だらけです。

 創造性がないなら、こんなにノーベル賞を取りますか? 世界の戦闘機は、我が國の素材がないと作ることができません。

 太古の昔から、女性が創つた小説がある國のどこが創造性がないのでせうか。

 つまり、歐米人や支那人は、我が國のことが理解できないのを通り越して、信じられないのです。人間社會では絶對にできないことを實現してしまつたからです。唯一神話の世界から歴史が連續した我が国を。だから正しく評價できません。
 カウンセリングには三段階がありました(20101217)。

①リレーションをつくる
②問題の核心をつかむ
③適切な処置をする  リレーションを作るために「受容と支持」が必要でした。問題の核心をつかむために「繰り返し」「明確化」「質問」を勉強しました。適切な処理をするために、情報提供とアドバイスがありました。これがカウンセリング体系です。

 面接中期の留意点の中の感情移転を解説しています。クライエントが示す感情転移の内容で多いのは、①依存性(甘え)、②愛の感情、③アンビバレンスです。それをひとつずつ解説します。

 まずは依存性です。
 私は、サラリーマン時代のある一時期、千葉県の君津・安房を担当しました。そのときに興味を持って八犬伝を読みました。風光明媚、温暖でとてもよいところです。最初はとっつきにくい人ばかりなのですが、慣れると今度は転勤で別れるのが悲しくなるほど、よくしてくれます(20100521)。

 あるガソリンスタンドなどは、お客様とも仲良くなりました。夏は、観光客で道路がとんでもなく渋滞するので、電車で営業にまわります。駅で降りて、そのスタンドに行くまでに、商店街のみなさんが、たくさん声をかけてくれたり、何かをくれたり。飲み屋で会おうものなら、もう仲間! 結婚したときに、女房を連れて行ったら、商店街のお店の人達総出でお祝いをしてくれました。

 なつかしいな~。

 さて、八犬伝は、いよいよクライマックス。舞台をその安房に移します。

義:犬川荘助(いぬかわそうすけ) 大塚村で蟇六・亀篠夫婦に雇われていた額蔵
礼:犬村大角(いぬむらだいかく) 現八と出会った、妖怪に騙され ていた人
智::犬坂毛野(いぬさかけの) 小文吾が軟禁されているときに助けた女に化けていた犬士
忠: 犬山道節(いぬやまどうせつ) 浜路の兄。不思議な行者。
信:犬飼現八(いぬかいげんぱち) 大塚村の信乃の隣に住んでいた糠助の子供。古河で、 信乃と対決して一緒に行徳に流れていった。
孝:犬塚信乃(いぬづかしの) 大塚村の番作の子供 浜路の許婚
悌:犬田小文吾(いぬたのこぶんご) 行徳の旅籠屋の息子
 これだけ本を讀んでも、まだまだ讀みたい本が出てきます。本を讀めば讀むほど讀みたい本が出てくる。なんて素敵なんだ。

 太宰治の晩年。これは面白い。

月別 アーカイブ

Powered by Movable Type 4.261

このアーカイブについて

このページには、2018年6月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2018年5月です。

次のアーカイブは2018年7月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。