源氏物語 再29(皇紀弐千六百七十八年六月二日 五)

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 先日、STさんと食事をご一緒したときに、以前、STさんにお渡しした本に「源氏物語は、もののあはれの文學」と書いてあることの話になり、とてもおいしい酒の肴になりました(20160930)。

 清少納言の枕草子は「をかし」の文學と云はれてゐます。ずつとずつと續いた我が國の感覺。それを本居宣長が「源氏物語の小櫛」で説いてゐます。本居宣長が我が國文化の發展に果たした役割も大きいですね。彼がいなかつたら、少し曲がつた文化になつていたかもしれません。古事記傳などは、その代表的なものです。正岡子規、井上毅も、我が國文化を救ひました。井上毅は、文化だけではありません。我が國そのものを救つた、我が國の救世主です。

 我が國は、危機に陥つたとき、必ずかういふ救世主が出てきます。でも、今の學校教育では、彼らをそのやうに扱ひません。子供たちが勉強を好きになるはずがありません。

 さて、源氏物語に戻ります。光源氏は、「藤壺の姪なら」と、祖母の尼君に、後見を申し出ます。
 でも、「ありがたいお話ですが、まだ、ほんの子供ですので」と斷わられてしまひます。

 さて、夕顔ショックで病に伏せていた光源氏は、すつかり囘復します。とたん忙しくなります。

 帝もおおいに心配してゐます。世話になつた人々へ十分な感謝とお礼を盡し、光源氏は後ろ髪をひかれる思ひを抱いて都に歸りました。その歸るときのあり樣、つまり、光源氏の美しさに人々は目を惹かれます。(まだこの名前ではありませんが)若紫まで、「お父様より素敵なのね」と云ひます。

 女房の一人が「では、あの方の子供になられてはいかが」と。

 紫式部のうまさです。なんども讀んでゐるからわかりますが、もし、私たちに、かつての日本文化の素養があり(源氏物語を讀む力)、源氏物語を初めて讀んだなら、この部分は、布石だと云ふことがあとがわかる仕組みになつてゐます。雨夜の品定めに始まる、紫式部の布石が源氏物語には随所にちりばめられてゐます。

 二条院に歸つた光源氏は、まず帝のもとに參上して、快癒の報告をします。すると、その席に左大臣の姿がありました。

「私の牛車(ぎっしゃ)でお送りしませう。一日二日ゆつくり休まれたらよからうに」
「お心遣いありがとうございます」

 覺へていらつしゃいますか? 左大臣は、光源氏の正妻 葵の上の父です。葵の上と光源氏は、あまりしつくりいつてゐません。なので、しばらく、妻のもとには通つてゐません。おろそかにもできず、左大臣家の牛車で、左大臣家に行きました。

 でもまあ、葵の上もそつけなく、光源氏の病氣のことなど歯牙にもかけません。

 なので光源氏の頭の中は、よけいに、若紫のことばかりになります。

 ちなみに、我が國では、右大臣よりも左大臣の方が位が上です。世界の國で、「左」が「右」よりも尊重されるのは、我が國だけです。

 イザナギノミコトがイザナミノミコトの死後の世界から逃げてきたときに、川で禊をします。その際、「左目を洗つたとき」に生まれたのが、最高神 天照大神なのです。

 宮中の位でも、左が上。

 他國では、武力をもつ右手、つまり、軍事力が尊重されてゐます。

 有史以前より、我が國では、軍事よりも、平和が尊重されました。なので、左が優先されます。

 古事記や歴史は我が国祖先の、私たちに對する遺言です。なのに、平氣で現代人はそれを無視します。

 「立ち合ひ出産」。びつくりします。古事記の遺言を知つてゐれば、こんな愚かかことは日本人ならできるはずがありません。

 古事記に海彦 山彦の話があります。おつと、長くなりましたね。明日にします。

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このページは、宝徳 健が2018年6月 2日 09:39に書いたブログ記事です。

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