福岡髙校テニス部日誌(皇紀弐千六百七十八年六月三日)

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 この日誌もあと二囘分で終はりです。手元にある「かみさんが發見した」日誌は以下の通りです。

①昭和五十二年四月二十五日~十一月十五日
 ちやうど、今書いてゐる日誌の次です。私たちはインターハイで引退(事実上は六月四日のインターハイ 福岡縣予選終了後 ガバナンスを2年に譲った)しましたから、その後の日々のも載つてゐます。これは樂しみです。

②昭和五十二年十一月十八日~昭和五十三年五月十四日
 ①の続きですね

③昭和五十一年四月二十七日~昭和五十一年九月二十二日
 今書いてゐる日誌のひとつ前です。

④昭和五十年四月十六日~昭和五十一年四月二十四日
 これは、我らがマドンナ 生田マネジャーの字ですね。

 そっか、部誌をつける文化がまだなかつたのですね。最初はマネジャーがつけて(このころは前の代の小原キャプテンのガバナンス)、そして、私の代になってからつけ始めたんだ。

 今の日誌が終はつたら、①→②→④→③の順番で書いていきます。

 そしてなんと、私の日誌が四冊出てきました。これはテニス部のことももちろんですが、部活を引退してからの日誌もあります。ものすごく恥ずかしいけど、これもブログに遺しますね。本當に真劍に生きてゐた。そのころを振り返り、そのころの寳德健にパワーをもらひます。

①昭和四十九年五月二十三日~昭和五十年十二月二十一日:この本に自己を発掘せよ
 これは貴重です。私は一度髙校受験に失敗して中學浪人をしてゐます。そのころから髙校一年生の日誌です。これは面白い。
②昭和五十一年一月一日~昭和五十一年八月三十一日:一ずつ不可能を可能に
③昭和五十一年九月五日~昭和五十二年十二月二十五日:自然体
④昭和五十三年一月九日~昭和昭和五十四年三月二十五日:MYSELF(この後大学生)

 計八冊  お付き合ひくださいね。

 では、今囘の日誌は寺田君です。一年生女子マネジャーが入りましたね。郷原さん。彼女のお姉さんは私たちと同級生。結構みんなのマドンナでした。
 こんな發言、今では、確實にセクハラですね(笑)。
4月19日 晴 寺田

ボールの数
 ストロークボール  14個
 くそボール 61個

練習内容
 ストローク
 柳川振り回し
 ペアボレー
 2年振り回し

欠席者 なし

感想
 今日はものすごくきつかった。1年の前でみじめな姿は見せるまいと振り回しをがんばろうと思ったのに・・・・シンダ! しかし1年にはまいってしまった。あいつらは二年を先輩と思っていない。あいさつをしろと言ったら三年生だけにして僕たちにはしない。空しい。あしたからかわいがってくれるわ!

 1年生のマネジャーの人、適当にがんばってください。はっきりいってもう1人かわゆい人がほしい。

 早く"ものかわ"の人をみつけなければ。山口さんにも怒られてしまう。早くひぱっりこまなければ。他のクラブにむりやり入れられてしまうかもしれない。僕たちがさきにつばをつけなくては。あしたは内科検診 チャンスです。 森にがんばってもらいましょう。

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このページは、宝徳 健が2018年6月 3日 06:12に書いたブログ記事です。

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