命の手紙 94(皇紀弐千六百七十八年六月六日 參)

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 今年九十一歳になる親父の海軍時代の話です。生きる力がまったく違います。甘やかされてゐない。今の時代は、すぐに「かはいさう」と云ひます。こんなことで、あの共謀極まりない歐米人や支那人に對抗できるわけがありません。なにが國際化だい。笑つてしまひます。

 つづきです。
 浦戸海軍航空隊(浦空 うらくう)は、ジャワ(インドネシア)に落下傘降した横須賀鎮守府の陸戦隊から着任した陸戦の専門家が司令で、む航空基地ではなく、ロケット砲の基地になっていた。

 戦後、米軍は土佐湾に上陸する予定はなかったことを知る。

 松空 まつくう の14期は6千人いたが、陸戦隊として高知県浦戸。山口県岩国。愛媛県宇和島。香川県善通寺などに分散配置され、松空に残ったのは操縦院400人、偵察員400人だけになった。ボクは偵察員。

 転勤者は松山駅頭で、♪同期の桜を歌い泣きながら見送った。あの時代別れは「死」を意味した。

つづく

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このページは、宝徳 健が2018年6月 6日 08:33に書いたブログ記事です。

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