Tennis Diary この本に自己の発掘をせよ 13(皇紀弐千六百七十八年六月三十日 弐)

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 小學校三年生で静岡に轉校したところからでしたね。

 二學期になつて、友達が出来て樂しく過ごしてゐました。

 ある昼休みに、友達と縄跳びをしてゐました。二人がまわして何人かが飛ぶやつです。隣のクラスの先生(女性 若い)と生徒が鬼ごっこをしてゐました。先生が逃げまわるとき、縄跳びをまわしてゐる私を逃げるときのつっかえ棒のようにしました。おかげで、縄跳びがまわらなくなり、みんなが跳べなくなりました。私は、ムッとした顔になり、先生をにらみました。すると、

「なんだその顔は!!!」と

 わたしを捕まえて、ビンタをしまくりました。ニ十發は叩かれたと思ひます。

「謝れ!」

 と叫びながら。謝る理由が見つかりません。「(あやまるのは先生だろうが)」と思ひながら耐へてゐました。それがまた氣に入らなくてニ十發以上になつたのでせう。唇の上を切りました。口の中も血だらけです。でも、當時は、家に帰つて「先生に殴られた」などと言はうものなら、また親に怒られます(笑)。「お前が惡い」と。

 後で聞いたら、その先生は、うちの担任の先生とあまり仲がよろしくなく、担任の先生が私をかはいがるのが面白くなかったそうです。坊主にくけりゃ袈裟まで憎いってか~。

 後日、體育を見學してゐる日がありました。もう一人男の子が見学學をしてゐました。その極惡教師手があいてゐました。極惡教師が、もう一人の男の子に「宝徳君と三人でサッカー遊びしない」と云ひ、その子が私に傳へに来ました。私は「(よく言ふわ)」と拒否しました。さびしそうな顔をしてゐましhた。少しは反省をしてゐたのでせう。若くてくれいなせんせいだつたのになんてことでせう。名前を思ひ出しました。今。芹沢先生です。もう五十年前のことですからいいですよね。(笑)。

 では、軆體が弱いくせに氣だけは強かった。宝徳小僧の日誌を。間違えてゐました。私は十五歳ではなく十六歳でした(中學浪人)。そして、けふの日誌は、誕生日を過ぎてゐますので、十七歳です。
 8/29 大学生と試合をしていて感じたこと。

〇winning shot が甘い
〇強打の処置
〇足のおそさ(ねがりのうすさ) 等々

 今日は休養の一日だった。明日からまたがんばろう。

新人戦の目標 "単複団体制す!"そして、次の日・・・

 ここに高校に入学してからの対戦成績をあげておく(単)

校内
 6-1、6-1(吉倉 2年)、6-0(小原 2年)、6-0(扇 2年) 6-2(埜田 1年)、6-1(中垣 1年)
 6-2、6-3、6-2(尾上 1年)、7-5(山口 1年)、6-4(白川 3年)、5-7(中島 3年)

 1-6、4-6、0-6、2-6(野村 OB)、2-6、2-6(山口 OB九州大学)

郊外
 1-6(安西 2年)、2-6(後藤 3年)

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このページは、宝徳 健が2018年6月30日 06:50に書いたブログ記事です。

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