2018年7月アーカイブ
今日のテーマは「人道は謙を好む」です。
今日のテーマは「高殿の造営を許さず」です。
宋という国が出てきます。戦国時代は、周→春秋時代→戦国時代と推移します。この周の前が殷です。周の武王が殷の暴君 紂王を倒したとき、すぐれた人物であった、紂王の兄、微子啓(びしけい)を封じてつくった国が宋です。
今回のテーマは「自己推薦制は是か否か」です。
さて、そんなことはありあしたが、葵の上(光源氏の正妻)は、無事に出産しました。贈り物が次々持ち込まれ、三夜、五夜、七夜、九夜の祝宴もにぎにぎしく催されます。
六条御息所は自分が生霊となつて葵の上に憑りついたことには氣づいてゐません。でも、魂が抜けてさまよつてゐるやうな感覺はあり惱んでゐました。
出産のニュースを聞いて、「あらっ、命も危ないといふ話ぢやなかつたの」とうらめしい。
氣がつくと衣裳には祈祷に用ひる香のにほひが滲みこみ、髪を洗つてもとれません。
「ああ、やはり、生霊になつて葵の上の枕邊に行つたんだわ」 自分が厭わしくなります。こんなことが世間に知られたら大變なことになります。獨リ心の中に隱してゐるとますます氣が變になりさうです。
さて、光源氏はどうでるか。
今日のテーマは「水争い」です。
六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)も胸騒ぎを覺へます。ますます氣が滅入つてしまひます。
光源氏が訪ねてきますが、そう簡單に氣はおさまりません。
「つらい、にくい、苦しい、でも好き」
なんせ、光源氏には子供が生まれるのです。もう訪ねてこないかもしれません。
今日は、西周という国の話です。テーマは「言い逃れのコツ」。
貞観二年、太宗が側近の者に語りました。
六畳御息所は、十分幸せになつてよい女性です。なのに東宮(皇太子)である夫には早世され、光源氏は浮氣者、葵の上にはあなどられました。もともとプライドは髙く、一途な性格で、傷つきやすいタイプです。さらに高貴。私たち下々の者にはこの苦しみはわかりません。
さて、葵の上の妊娠の経過がよくありません。
荊軻(けいか)による始皇帝暗殺事件が失敗に終わりました。秦は燕を攻める口実ができました。
でも最近はご無沙汰です。手紙のやり取りさへあまりありません。辛い日々です。
娘が伊勢神宮の斎宮(さいぐう:帝に替はつて神に奉仕する立場)に任じられたので「あ~あ、都にいてもしかたがないから、私も伊勢に行かうかしら」。
でも、光源氏への未練があり、なかなか踏ん切りがつきません。
さて、シリーズで、戦国時代最大の暗殺未遂事件を紹介しています。荊軻(けいか)が始皇帝に斬りかかったところまででした。
この物語はフィクションということにしておきます。
ひとりの友達が何気に、そのマンホールを空けました。そのときは、ふ~んという感じだったのですが、次の日、そのマンホールを除いた友達が「宝徳、 あのマンホール、底を覗いたら、となりの自衛隊まで続いている(地域を特定したくないのであえて標準語で書きます)。自衛隊の基地まで行ってみない?」と 言われました。彼は、他の友人にも声をかけ、決死隊が5名が結成されました。小学校の隣が自衛隊基地で、私たちは、かねてより、柵越しの向こうの方になってい る、柿や栗を採りたくてしかたがありませんでした。
5名でマンホールの底に降り、非常に狭い平行の管を匍匐前進(ほふくぜんしん、腹ばいになり、手の力だけで前に進むこと)で、数十メートル先の、 自衛隊基地まで進みました。今考えると危険きわまりありません。崩れていたら、私たちは今日まで発見されずに、遺骨のないお葬式をだされていたでしょう。 あんなことろに小学生がいるなんで絶対に考えられませんから。
それでも、なんとか向こう側の基地に到着しました。柿や栗は目の前です。誰か覚えていませんが、隊長になり、「伏せ」「突撃~」っと柿と栗を目指しました。その瞬間「こら~~!!!」という巡視兵の声。
「お前ら、どっから入った???!!!」相手としては、なぜ、ここに小学生がいるのかまったくわかりません。わかるはずがありません。私たちの 柿・栗作戦は失敗に終わりました。なんていってる場合じゃありません。 本部まで連行されました。巡視兵を先頭に、5名が引き連れられて。そのとき、私の 年の近い非常に私をかわいがってくれた叔母(この人は目が悪い)が、自衛隊に勤めており、私たちが連行されるのをたまたま見て「あ~、小学生も基地を見学 できるんだ~、今度、たけしちゃん(私のこと)に教えてあげよう」と思ったそうです。
基地本部に連行されました。恐いおっさんが、確か4名くらいで取り調べ「どこから入った?」「お父さんの職業は?」「住所は」「学校は?」「学年は?」と矢継ぎ早に質問が飛びます。
5名の中に、自衛隊の幹部(三佐:昔の少佐)の息子が2人いました。「お父さんの職業は?」と聞かれても、その2人はなかなか答えません。取調官 の方から「もしかしたら、きみたちは、○○三佐と、○○三佐の息子さんか?」と聞きました。「はい・・・」。取調官は、「わざわざ忍び込まなくてもお父さ んに言えば見学できるじゃないか?」と泣きそうな顔になりました。
その後も厳しい取調べが続きました。「親に言うぞ」「学校に言うぞ」と脅されました。あまり脅されるので、私は思わず「小学生に侵入される基地の方が 問題があるんじゃないですか?」と言ってしまいました。言ってから、「しまった!!!」と死ぬほど後悔しましたが、もう後の祭り。 このまま自分の人生は 終わると思いました。
ものすごくしかられて、あ~、明日から、もう学校に行けないな、きっと勘当させられるだろう。もしかしたら、銃殺刑に処せられるかもしれない(こ れは真剣に思いました)、と考えて、とぼとぼと夕方帰宅したのを覚えています。この後の記憶は定かではありませんが、親にも学校にも通達がなかったように 思われます(当然ですよね。小学生が侵入できる基地なんて、軍事基地としてはありえません)。
当時は、何事もなくビビリながらホッとしました。でも、親には・・・と思い、親に言ったところ、思いっきり笑われました。私の親は、特に母親は、 私の姉が長男を生んだときのアドバイスが「男の子はその日に生きて帰ってくればそれでいいのよ」だったくらいです(本当はとても心配だったと思います。親 になって言わない親がどれほど苦しいかわかります)。
なぜ、今日これを思い出したかはわかりませんが、私は自分の子供時代を振り返ると、「よく今まで生きてたな~」と思うことばかりです。勉強はとりたててした覚えはなく、いつも野山・海を駆けまわっていました。
心配を我慢して、枠に縛らず、のびのびと育ててくれた親に感謝です。今日は彼岸の中日! 亡くなった母のことを考えたときに思い出したことです。
さて、日誌。中部地區大會 二日目です。昭和五十年。高校1年生です。
今回は「内挙には親を避けず、外挙には讎(しゅう)を避けず」です。
さて、時は、ほんの少し過ぎました。桐壺帝は、譲位して上皇になつてゐます(桐壺院)。弘徽殿の女御(こきでんのにょうご:光源氏が大嫌い。右大臣の娘。朧月夜の姉)。と帝の間にまうけた皇子が朱雀帝(すざくてい)に即位してゐます。そして、藤壺との間にもうけた(本當は、藤壺と光源氏の不義の子)が、立太子、つまり、東宮となつてゐます。
戦国時代最大の暗殺未遂事件。さあ、荊軻(けいか)が、秦の国に着きました。