貞観政要 再13(皇紀弐千六百七十八年八月七日 六)

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 唐の太宗の理想の政治とされている「貞観の治」を紹介しています(200912021)。

 今日のテーマは「言語は君子の枢機なり」です。
 貞観八年、太宗が側近の者に語った。

「言語は君子にとってこの上なく重要な手段である。人と語るということは、はなはだむずかしい。一般の庶民の間でも、一言でも相手に気に障るようなことを口にすれば、相手はそれを覚えていて、必ずどこかで仕返しをするものだ。まして天子たるものが臣下を語るとき、わずかな失言も許されない。たとえ些細な失言でも、影響するところが大であって、庶民の失言とは同日には論じられないのである。私は常にそのことを肝に銘じてきた。
 隋の煬帝が初めて甘泉宮(かんせんきゅう)に行幸したときのことである。庭園がすこぶる気に入ったが、どうしたことか蛍が一匹も姿を見せない。そこで『蛍を少し捉えてきて、宮中に放つがよい』と命じたところ、係りの役人はすぐに人足数千人を動員して蛍狩りをさせ、車五百台の蛍を送り届けてきたという。蛍のような小事ですらこのような有様、まして天下の大事ともなれば、その影響は計り知れない」

 魏徴が答えた。

「人に君たる者は、この上なく尊い地位についておられます。その君主が過ちを犯せば、古人も語っているように、すべての人々が日食や月食を見るようにこぞって目を向けましょう。陛下のご自戒はもっともでございます」


【宝徳の所感(私見です。参考本とは関係ありません)】
 リーダーの地位についた者ならわかる内容ですね。言葉だけが一人歩きする。人は、言葉を自分の都合のよいようにとります。だから、その影響を良く鑑みて話す必要があります。

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このページは、宝徳 健が2018年8月 7日 09:58に書いたブログ記事です。

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