命の手紙 121(皇紀弐千六百七十八年八月十二日 參)

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 この手紙(まだまだたくさんあるのでご安心を)の最終囘です。
 宝徳は"いいこと"ばかりしてきたように受け取られるお話になりましたが、失敗の連続でした。生きていくことの基礎は「学問」です。ボクにはその基礎がないから、理解するのに人の何倍もかかり、失敗を繰り返しながらここまでくることができました。大卒に追いつくまでに30年もかかりました。追いつけば、追い越すのはわけはない。

 20年間も現場で働き、小学校卒の学歴のボクを、その場面々々で支援してくださった上司の方々がおられなかったら、ボクの人生は惨めな結果で終わっていたはずだと感謝しています。

 ボクは辛うじて大きな会社の幹部のはしくれになりました。財務諸表が読めなければ幹部として通用しません。ボクはこれも、債権管理特別委員会に名を連ねるまでになりました。

 大学に行きたいと思いながら叶わなかった。東京の同級生から大阪にいるボクに「宝徳、お前は大学に行け、昼、働いて夜行けばいい」と言われましたが、昼、働いて夜、大学なら自分の生活はそれでいいが、小さな弟二人と母の生活はどうするのかと、踏み切れませんでした。

 毎日、午前2時まで起きていて、会社の図書室や技術部で借りた技術の本を写しました(あの頃はコピー機がなかった)。その「メモ」が後日の配属先で役に立つとは思ってもいませんでした。

 ボクは多い時は同窓会を三つもまとめていたが、もし、ずっと現場で働いているままだったら、恐らく同窓会の前には出なかったと思います。ボクにだって意地があります。  終り。

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このページは、宝徳 健が2018年8月12日 07:04に書いたブログ記事です。

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