命の手紙 121(皇紀弐千六百七十八年八月十五日)

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 この記事から明日のルーティンです。
 
 新しい父からの手紙です。まだまだ、このブログで紹介するの手紙はたくあります。追いつきません。

 軆體(しんたい)髪膚(はつぷ)これを父母に受く、あへて毀傷(きしょう)せざあるは考の始めなり。

 支那の古典孝經の言葉です。「親からもらつた軆體だから、それを傷つけないのが親孝行のスタートである」です。

 だから、女性がピアスをしたりするのは人間の生きる道にはずれてゐます。

 なんて・・・・。私はなんでせうか。手術だらけ。親不孝にもほどがあります。妹から聞きました。交通事故に遭った時、父は、日に何度となく佛壇に向かって、母に、「健を助けてくれ」と禱つてゐたさうです。

 親だけではありません。家族にもクライアントにも・・・。遭遇したことに對して、得たことを返さなくてはなりません。

 特に、かみさんですね。私の後半戰は、彼女を幸せにすることに集中します。私は、結婚してからまだ彼女を幸せにしてゐない。

 さて、父の新しい手紙。タイムリーな話題です。 この話をわかる日本人を創る教育が必要です。日本史の中に、朝鮮・台湾が日本だった歴史がない。満洲も。おかしいですよね。


 ホッチキスで止めてあるのは、

 昨年10月、「朝日新聞社大阪本社に宛てたお願」いと、

 「第17回全国中等学校優勝野球大会(いまの高校野球)の準優勝校・台湾の嘉義農林(かぎのうりん)学校野球部の実話」を映画化したものです。

「KANO 1931 海の甲子園」を解説したものです。

KANOは、KAGINORIN

 今年は朝日新聞の甲子園100年「嘉義農林を甲子園に呼び寄せよう」と発案したのは秋武洋子(健の叔母です)さん。洋子さんの命令でボクが段取りしました。

 ボクは嘉義農林(台湾)、大連実業(満洲)、京城(けいじょう)二中(朝鮮)の強豪校をハッキリ覚えています。

 台湾に行って、ツアーバスが「嘉義」を通ったときに。嘉義農林を思い浮かべました。嘉義農林からは、プロ野球選手-呉昌征(ごしょうせい)が阪神で活躍していました。

 呉昌征を間違いなく書いてあるボクはすごいなあと思った。書いたあとで検査(PC)したらちゃんと合っていました。

 「KANO1931(昭和6年)海の向こうの甲子園」はちょっと読みにくい文章になっていますが、あの時代、台湾・満州・朝鮮にいた中学生(高校生)が、はるばる海を渡って(船で-旅客機がない時代)甲子園に来ていたのです。  終わり。

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このページは、宝徳 健が2018年8月14日 16:59に書いたブログ記事です。

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