命の手紙 122(皇紀弐千六百七十八年八月十七日 弐)

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 おもしろいですね~。いくら親父が熱く語っても、あの國賊朝日新聞がこんな意見を聞くはずがありまsん(爆笑)。だつて、日本がかつて、良い國だつたことを認めてしまふんですもの。まあ、それでも、かういふことをするのが、親父らしいですね~。
 
 さて、今囘から、

KANO1931海の向こうの甲子園

を親父が語ります。
KANO1931海の向こうの甲子園

 昭和19年、錠者大尉ら大日本帝国陸軍将校たちは、南方の戦場に向かうために台湾の基隆駅から、台湾南部に向かっていた。錠者は同行者に「嘉義に着いたら起こしてくれ」と言って、しばしの眠りにつく。

 昭和6年夏、甲子園球場で行われた第17回全国中等学校宇小野球大会の開会式に、錠者は札幌商業のエースとして参加していた。

 日本本土の学校だけでなく、大連や京城といった外地の学校のプラカードも見える。そこに交通事情から遅れて参加してきたのが、嘉義農林学校野球部の選手たちであった。

 物語はさらに昭和4年に遡る。のんびりしたチームの「嘉農」野球部は当然連敗続きであったが、新任監督として迎えられた日本人の近藤兵太郎によるスパルタ式訓練により、部員たちの心には徐々に闘争心と甲子園出場への夢が芽生えていった。 つづく

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このページは、宝徳 健が2018年8月16日 21:34に書いたブログ記事です。

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