KANO1931海の向こうの甲子園
のつづきです。
近藤は日本人のみを贔屓にすることなく、守備に長けた日本人、打撃に長けた漢人、韋駄天の如く足の速い高砂族の選手たちのバランスの良いチームを作り上げていく。また、かつて近藤画始動し、その指導に委縮した松山商業と比べ、嘉農の選手たちがのびのびとプレーする姿は近藤自身を生長させ、チームに対する愛情を深めていくのだった。
少年たちは日本語で教育を受け、日本語を話した。しかし街や仲間内では台湾語を話した。日本の統治下にある街には日本語と漢語があふれ、近代化整備が進みつつあり、活気に満ちていた。一方で、農村は治水対策が不十分で、台風のたびに甚大な被害を受けていた。 つづく
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