Tennis Diary 一つずつ不可能を可能に 6(皇紀弐千六百七十八年八月十日 五)

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 テニスの四魂 最期の CONは「Consideration」です。つまり熟考です。私は、四魂の中でこれが一番好きでした。

 いくら強くても、いくら強いショットを打てても、まずはきちんと自分を知らないと絶對に勝てないといふことです。心理學の論理療法で云ふところの「マインド・フルネス(自分の立ち位置を知る)」です。その上で、相手のことも知りながらまた、ゲームの流れの中で作戰を立てていく「パーソナル・インパワーメント(具体的行動)」です。どんなに具体策を講じてもマインド・フルネスに基づかない具体策は意味がありません。

 目的と目標を持って戰ふといふ任務分析でもあります。これができていないんだよなあ。最近。この入院で振り返ることがたくさんあります。これも入院中に書きますね。まさにマインドフルネスです。

 松岡修造さんが面白い本を出してゐます。


 彼らしく、輕いタッチなので文章も讀みやすいですしスケートの羽生選手、ジャンプの高梨選手など一流選手がたくさん出てきて、「弱さを出すことの重要性」を説いてゐます。まさにこれがマインド・フルネスですね。

 これも何度も書きました。私は三十歳の時にある事件から自己改造をせざるを得ませんでした。苦しくて苦しくて、いろいろなことをしました。ある時、坐禅に行きました。坐禅が終わって和尚さんの説教があります。説教が終はつたとき、生意気な私は云ひました。

 「和尚さんは、偉そうに仰ってますが、ご自分はそれが出来ていらっしゃるのですか?」

 生意気ですね~。今、こいつが目の前にいたらぶっ飛ばします(笑)。

 和尚さんは素敵な最高の笑顔で答えてくれました。

「いいえ」

「では、なぜ私たちにそのようなお話をされるのですか?」
 
 もっと素敵な笑顔で

「自分の小ささを知るためです」

 その瞬間、私の目か鱗が何百万枚も落ちました。「そうか、今まで、自分を大きく見せよう、大きく見せようとしていた。小ささを知ればいいんだ」。マインド・フルネスです。それから人に本当に優しくできるやうになりました。人と接するのが樂になりました。あまり物事が怖くなくなりました。

 さて、そんなことを知らない、えらそうな、十七歳の私はどうでせうか(笑)? 少しずつ、「間合い」が分かってきています。もちろん当時はそんな言葉を知る由もありません。
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テニスを通して感じ取ったことだが、何事にも言えることだと思うので書いてみる。何事にも自信がついてきたと感じられたら、そのものに対して可能性が出てきただけである。自信がついてきた時 もう一歩踏み込んで努力してみろ。(この努力は並大抵の努力ではダメである。一つの壁を破るのだから)。そうすれば本当の意味での自信がつくはずである。そしてさらにその時努力してみよ。今度は、その事自体が無意識に行動に出てくるであろう。たとえばラケットにボールを当てるがごとく。

《テニス》
 明日からの練習でつかむこと

 ボールの心を読み取れ。つまり相手のラケットからボールがはなれてバウンドするまでに
1.ボールの回転
2.落下地点
3.どの位置に入ればTOPで打てるか(最適位置)
 を読み取ることである(他人が打っているときも)

 自己をみつめるということがまだよくわかっていないようだ。他人がどんな強い球を打ってこようが関係ない。自分は自分の道を歩め。何も自分まで強い球を打とうとする必要はない。自己解釈も行けない。

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このページは、宝徳 健が2018年8月10日 14:20に書いたブログ記事です。

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