戦後の過った自虐史観で、私たちは、史実までもが嘘としている社会に生きています。それを神功皇后(じんぐうこうごう):息長足姫(おきながたらしひめ)を通して検証していきましょう(20130328)。
古墳時代に我が國が朝鮮半島に軍勢を連れて渡ったことは史実です。
我が國画がキリシタンを弾壓したことを司馬遼太郎が書いてゐます。「信徒に蓑を着せて火をつけた」といふ。これが嘘なのは今ではバレバレです。私達も小さい時に學校でかう習ひました。メディアと學校教育は嘘ばかりです。 では、つづきです。 あと二囘。
神功皇后(じんぐうこうごう)の名前さえ知らない日本人ばかりになってしまいました。これも不埒な日教組による戦後の過った教育の弊害です。これについては、おいおい(20130327)。
さて、日本一の湖は琵琶湖です。滋賀県は古代には「近江國」と呼ばれていました。琵琶湖は都に近いので、「近淡海(ちかつおうみ)」がなまって「おうみ」となったと言われています。
アジブト少年の樂しいひと時が瞬く間に過ぎ、つひに、四十日目を迎へました。
少年は十五歳になりました。折しも磁石島の騎士が射落とされたとのうわさが届きました。
スティーブ・ジョブスがどんな人間だったかがある本に紹介されてゐます。
「貞観政要(じょうがんせいよう)」も最終回になりました。勉強になりましたね。ためになりましたね。
さて、太宗の後継者問題に話の内容がうつっています。最初太子(皇太子)には、承乾(しょうけん)という長男がなっていました。太子は、すぐれた教育係をたくさんの息子につけ、後継者教育にはとても力を入れていました。でも、承乾は、日がたつに連れて横柄になっていきます。太宗は承乾に対する愛情が失われていきます。それを知った承乾は、太宗暗殺を企てます。これでは仕方がありません。太宗は、承乾の身分を剥奪して庶民に落としました。苦悩の決断です。
次男はかなりの策謀家でした。混乱時ならいいのですが、守成時には向いていません。しかたがなく、皇后の父親などの意見を取り入れて、三男の治(ち)を太子に立てることにしました。この時、魏徴が生きていたらまた違った決断になったかもしれません。
この貞観政要もあと二回となりました。かなり長い期間にわたってご愛読いただきました。あと二回をお楽しみ下さい(20100228)。
無人島に流されたアジブですが、ある日、向こうから島に近づく船がみえました。なにかいわくありげな船だったので、アジブは、木に登り樣子をうかがいました。
またまた、太宗と魏徴の会話です(20100227)。
唐の太宗が行った理想の政治といわれる貞観の治のことが書かれた貞観政要を紹介しています。ここ数日、貞観政要を連続して掲載していますが、シリーズで時々紹介してきたこの貞観政要ももう終わりに近づいています。ですから、読者のみなさんがイメージしやすいように連続して書いています(20100226)。
では、またまた、魏徴が太宗に諫言します。
唐の太宗が行った理想の政治とされる貞観の治が書かれた貞観政要を紹介しています(20100225)。
さて、初心を忘れて贅沢になった太宗に、魏徴が命がけの諫言を上申書にしたためて太宗に送りました。前回までで十の諫言を紹介しました。
太宗はこれを読みました。太宗はどうするのでしょうか。
唐の太宗が行った理想の政治とされる貞観の治を書いた「貞観政要」を紹介しています(20100224)。
初心を忘れた太宗に対する魏徴の諫言が続きます。諫言の最後のところです。
初心を忘れてしまった唐の太宗に魏徴の諫言が続きます。第十番目の諫言内容です。上司も部下もこの緊張感はすごいですね(20100223)。