源氏物語 78(皇紀弐千六百七十八年九月二十九日)

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 「小式部(こしきぶ)」といふ室町物語(御伽草子)は、紫式部を以下のように紹介してゐます。

 一条天皇の中宮・藤原彰に仕える女房に、紫式部と云ふ女性がいた。その姿はただならず美しく、青柳の糸がそよそよと春風に靡くやうな風情であった。

 翡翠色の髪は、蟬の羽が透き通ったかのやうにつやつやとしており、長く亂れかかる髪の間から、ほのかに見える彼女の顔は、まるで薄雲を通して名月を見るかのやうに輝かしかった。

 唇は、芙蓉(蓮の花)のやうに赤く、胸はタマを延べたやうに白い。花園の梅櫻が、夕映への中で開き始めたかのやうな姿である。

 素晴らしいのは、外見だけではない。心ばえが幽玄であること、限りもない。琴・琵琶の音楽にも優れてゐる。和歌の道に關しては、衣通姫(そとおりひめ)・小野小町など、すぐれた女性歌人の跡を繼ふほどの名人だった。
 
 藝術だけでなく、佛道にも精通して、法華經を唱へていた。

 まあ、美化しすぎなのかもしれませんが、あ~、惚れるなあ。でも、これひどまでに紫式部のイメージを想像してやまなかった。なぜでせうか。

 さて、つづきです。

 第十二帖 須磨です。

 須磨に移つてからの光源氏は、蟄居の場所として大阪彎に面する須磨を選びました。仕事でよく明石に行きます。今でこそ結構にぎわつてゐますが、光源氏の頃はどうだつたのでせう? きつとさびれていたのでせう。
 それよりも、都において、光源氏のおかれていた立場はかなり深刻でした。強力な桐壺院を後ろ盾にしていたのですが、みまかったあとは、謀反の噂までささあかれます。どんな惡巧みがしかけれらるやもわかりません。野心ないことを示すためにも當分、都と離れるのが得策です。

 しかし、いざ、實行するとなると、光源氏自軆は、苦惱に満ちます。そればかりか、近しい者たちの悲哀が著しいのです。

 まずは、紫の上(若紫)。「そんな馬鹿な。たつた二、三日離れるだけでも辛いのに。この先何年待ばいいの?私も連れていって!!!」

 でも、光源氏にしてみれば、この政爭に愛人を連れて行けるわけがありません。 つづく

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このページは、宝徳 健が2018年9月28日 19:43に書いたブログ記事です。

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