命の手紙 126(皇紀弐千六百七十八年九月二十九日 四)

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KANO1931海の向こうの甲子園

のつづきです。
 再び、昭和19年(1944)。錠者大尉は、嘉義駅での大砲の積載に時間がかかることを確認すると、嘉農の練習場へ向かった。

 あの時の彼らの強さの原点は、何だったのか。街には第二次世界大戦中の大日本帝国領として戦意を高揚させる垂れ幕があふれていたが、かつてのような活気はなかった。錠者は、荒れ果てた練習場のピッチャーマウンドに立つ。

 準決勝の対小倉工業戦も、10-21で圧勝。魂の篭った姿勢と素晴らしい強さは、本土の野球ファンをも魅了し、応援するファンも増え決勝戦では超満員の観衆が甲子園に詰め掛ける。そして決勝の相手は、名門中の名門 中京商業。 つづく

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このページは、宝徳 健が2018年9月28日 20:26に書いたブログ記事です。

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