先日、友人に太宰府天満宮に連れて行つていただきました。これまでも何度か行つたことはありますが、その友人ほど詳しくありません。彼は、髙校時代弓道をやつてゐたので、かつて弓道場があつた太宰府には詳しいのです。
大宰府について昼飯を食つて、お參りして、姪と知り合いの娘さんの合格お守りと鉛筆(二人とも受験生。姪には合格梅干も)を賈ひました。そして、大宰府に來たらどうしてもやらなければならないことがあります。そして、今回はプラスして、また別の友人から、ここには絶對に行けと云ふ指令を受けた店にも。
一つ目は、お石茶屋。梅が枝餅を食べるなら絶對にここださうな。梅が枝餅大好きです。太宰府天満宮の裏手にあるので、支那人でごったがえす表參道の喧騒がありません。
うまいのなんの。俺、もうここでしか梅が枝餅を賈はない、食べない。
なんと、故佐藤栄作首相など重鎮も訪れてゐます。
お石茶屋はの名前は、女主人 故江崎イシさんにちなみます。(以下、店にあった「お石茶屋のこと」を編集。店の人に 創業は何年ですか?と尋ねても、みなさん、笑顔で さあ(笑)、でした)
おイシしゃんは、筑前三大美人と云はれ、品の良い顔立ち、大柄でゆつたりとした風情、やわらなか中にも毅然とした氣骨は 牡丹の花 を思はせたやうです。
「田舎教師」といふ小説を書いた(これは面白い小説です)、田山花袋は「九州でもあれほどの美しい女はあるまいといふことだった。で私たちはそこで休むことにした。そこにはお石といふ女がその色白の太ったニコニコした顔を現した。大勢の客に朝夕接していながらやつぱりどこかきまり惡がる女だったが、評判にたがわぬ美しさをもっていた」と紀行文に記してゐます。
イシは明治三十二年大宰府の大宰府の連歌屋でつくり酒屋を營む江崎家の長女として生まれた。十七、八歳のころから母親が酒屋の片手間に天満宮の境内で營んでいた茶與といふ茶店を手傳ひ、その店を繼いだ時に、自分の名前にちなんで屋號を「お石茶屋」と改めた。
彼女の美しさと氣っ風の良さで「おイシしゃんの店」と呼ばれ、地元の評判となった。
やがて政友会の大物で福岡縣選出の代議士 野田卯太郎の目に留まり、その名聲は、中央にまで聞こえるようになり、政治家や實業家、文化人、芸能人、將官達、それに詰襟の學生達も次々にお石茶屋に立ち寄った。
その中には、髙松宮殿下、詩人の野口雨情、歌人吉井勇、五・一五じけんで倒れた犬養毅首相、外交官 松岡洋右、電力業界の立役者松永安左衞門、緒方竹虎救総理等がいた。
佐藤栄作首相も旧国鉄二日駅長時代から大臣になっても度々訪れている。俳優の長谷川一夫、高峰秀子も若い時に来ており、シンガーソングライターのさだまさしは「飛梅」という曲にお石茶屋を歌い込んでゐる。
店の横にある赤レンガ造りのトンネルは、昭和三年新聞に大きく取り上げられた「おイシしゃん」の名を廣く全國に有名にしたトンネルである。筑豊の炭鉱王 麻生太吉が、おイシしゃんが遠回りをせずに自宅から直接通えるやうにと掘ってやったトンネルといふことで「おイシしゃんトンネル」と呼ばれた。真相は竈門(かまど)神社參拝や寳満山登山の人のために造ったといふことであるが、そんな噂を流されるほどイシの美貌と人氣はすばらしかった。
昭和五十一年五月十四日 イシは七十六年間の獨軆の生涯を閉じた。
店の前にある吉井勇の歌碑はお石茶屋を訪れたたくさんの人たちの心情を傳へてゐる。
大宰府の お石の茶屋に 餅食へば 旅の愁ひも いつか忘れむ
もうひとつは、別の記事で。
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