源氏物語 81(皇紀弐千六百七十八年十月七日 八)

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 この三連休のブログ目標が30通、これを書いたら17通ですから、あと13通です。今年のブログ目標が730通 これを書いたら665通ですから、あと65通です。今月中にいけさうですね。

 讀書目標は220冊です。昨日まで178冊。これもいけそうです。

 あとは、手紙ですが、これがまだやる能力を有しません。ブログは何年も達成ベース、讀書も。來年は、手紙を年間3600通書きます(年賀状含む)。これで年間目標達成ベース人間にやつとなれます。それと、来年から 弊社月刊誌 士魂商才を復活します。八十九號から。

 さて、源氏物語がなぜ、こんなに千年間も日本人を魅了するか。

 私たちは、たつた一度の人生に縛り付けられてゐます。源氏物語は、そんな私たちに、無限の人生の入門許可をくれます(源氏物語ものがたり より)。讀者は、何にだってなれるし何だってきます。どこへでも行けます。どんなにだって生きられます。人間に許されるすべての行爲が認められ、人間が抱くすべての感情が體驗できるのです。豊饒とはこのことなのでせう。

 天皇(桐壺帝)の立場でたった一人の女性(桐壺)との純愛を貫けない苦しさも體驗できます。光源氏と云ふ義理の息子と過ちを犯し、罪の子を産んでしまったお后(藤壺)の良心の呵責も、父親のやうに慕っていた男性(光源氏)が、「男」である事実を知って愕然とする紫の上。

 讀めば讀むほど、どんどん身体にしみいってくる。それが源氏物語です。古今東西 こんな小説家が存在しただらうか???

 さて、つづきです。紫の上の心情です。
 紫の上の実の父でさへ、自分の娘が光源氏と結ばれてゐることを世間がどう見るかと云ふ噂におびえてゐます。継母は「あら、いい運をつかんだと思ったら、まあまあ、縁起の惡いこと」とあざ笑ひます。

 ここで、置いていかれたら自分はどうなるのだらうか?

 光源氏は、「ずつと向こうにいることになつたら、呼び寄せるから」と云ひますが・・・。

身はかくて さすれへぬとも 君があたり 去らぬ鏡の 影は離れじ
 
 自分の身はさすらひの旅に立つけれど、あなたの近くで鏡の中に影を残し、けっして離れませんよ。と、詠みます。

別れても 影だにとまる ものならば 鏡を見ても なくさめてまし

 面影が鏡に留まるなら、それを見て慰められます。と、紫の上は返します。こう詠んで、柱の陰で涙を隱してゐる紫の上を光源氏はたまらなくいとほしく思ひます。 つづく


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このページは、宝徳 健が2018年10月 7日 08:18に書いたブログ記事です。

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