源氏物語 83(皇紀弐千六百七十八年十月廿日)

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 源氏物語を繰り返し繰り返し讀んでいき、私の心の中で何かがはじけてきてゐます。恐らく、源氏物語にはまった人たちは同じなのではないでせうか?

 これまでの自分の生き方、價値觀・・・。あんな稀有なのに光源氏の人生と自分の人生を重ね合はせることで、「おい、お前の人生を變更しろよ」とどこからか聞えてきます。でも、それは自分の人生を否定されることではなく、なんといふかなあ・・・、自分といふそんざいの可能性を否定してきた自分に新たなる可能性をていきょうしてくれるのです。「變はる」といふ可能性を。

 私は、まだまだ(當然)ですが、源氏物語は素人です。でも、一度、この感覺を味はつたら、もう、紫式部のわなから抜けることはできません。紫式部の掌の上で踊らされてゐるのですが、それが非常に氣持ちの良い踊らされ方なのです。

 さあ、一緒に、續きを見ませう。
 二条院(光源氏の本宅)の主は、光源氏が身を引いたあとは、紫の上です。領地その他の証書なども紫の上に譲り渡し、財産の管理は乳母の少納言に委ねました。

 あとは、連れていく者の人選、持っていく物の整え。

 これまで光源氏に仕へてゐたものは、不安で仕方がありません。

「命があつて歸る日もあらう。待てる者は西の對に赴いて女君(紫の上)に仕へるがよかろう」

 そして、

逢ふ瀬なき なみだの川に 沈みしや 流るるみをの はじめなりけむ

 あなたを思ひ出す罪だけからは逃られません、と云ふ意味。なんとうまいことを云ふのでせう。

 まあ、よくやりますよね(笑)。朧月夜は、政敵 右大臣家のものであり、光源氏が流れていく原因となった女性です。ひとりの女性を愛することはこれぐらい命がけでないといけないのですね。

 かういふことなんです。こんなにいろいろな女性を命がけで愛し、そして、すべての女性への氣遣いを忘れない。

 不器用な私には絶對に出來ないことです。でも、源氏物語の中では体験驗できてしまふのです。この魅力に參つてしまふのです。

涙川 うかぶみなわも 消えぬべし 流れてのちの 瀬をもまたずて

 朧月夜からの返歌です。

「涙の川に浮かぶ水泡(みなわ)のやうに私はあはれで消えゆく立場です。あなたの流罪が解けて逢ふ、その逢瀬を待つこともなく」

 もう、たまりませんね。昔の日本人は素敵すぎます。

 光源氏は「もう一度逢ひたい」と思ひますが、それがかなふはずがありません。

 さて、いよいよ、光源氏の出発の日が近づきます。

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このページは、宝徳 健が2018年10月20日 03:23に書いたブログ記事です。

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