福翁百話 4(皇紀弐千六百七十八年十月二十一日 弐)

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 二つ目です。

善悪の標準は人の好惡に由て定まる
善悪の基準は人が好むか嫌がるか
 道徳とは、人と人とが相対してからの問題である。

 たとえば、ここに難破して無人の孤島にただ一人上陸した者がいたとすると、その人にとっては、その日から道徳の心がけなどはいっさい無用と知るべきだ。

 ウソを言おうとしても、相手がいなければ言えない。物を盗もうとするにも、物に持ち主がいなければ盗む必要もない。仏教でいう「十徳五逆」、つまり十の悪行と五の逆罪も、これを実行する方法もないのだから、ただすることといったら知恵で自分の飢えや寒さを防ぐ才覚を使うことだけで、それは道徳的観点からみれば、善でもなく、悪でもなく、この人はどちらでもない人ということになるだろう。

 道徳とは完全に人に対する場合の教えであるとして、さて、今日の実際において、何を善として何を悪とするのかと尋ねるならば、人に対して、その人の好まないことを仕向けないのが善え、これと反対のことをするのが悪なのだ。

 「己の欲せざることを人に施すなかれ」というのは古代の聖人の教えで、これを「如の道」という。その人の欲するところをするというのは、すなわちさいぜんであり、人を円満にする極意であって、それは人が本来生まれ持っている心なのだ。  つづく

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このページは、宝徳 健が2018年10月21日 20:14に書いたブログ記事です。

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