二百年といふと假に一世代を三十年とすればだいたい七世代となります。紫式部が源氏物語を書いてから、二百念が經過しところ、つまり、七世代ほど經つた頃、大きな社会現象が起きました。
そのため、ひらすら源氏物語を耽讀た人たちから源氏物語を理解するための社會的基盤が失はれていきました。
武士の臺頭が、宮廷政治を中心とした社會構造を一變させたのです。平清盛の日宋貿易は、大量の銅銭輸入により經濟構造を激変させました。保元の亂、平治の亂、源平合戰、鎌倉幕府の成立、承久の變・・・・。
優雅なる王朝文明は、まさに滅亡の危機を迎へました。
他のすべての國なら、ここで宮廷文明はすべて破壊され過去のものとなります。
ところが、世界で唯一歴史が連續した 人間社會の奇跡の國 日本では、かういふときに必ず偉人があらはれてこの危機を救います。 この時期、世界に類を見ない古典を救つたのが、藤原定家です。かれの最大の功績は、「源氏物語」に「古典の地位」を與へたことです。
さて、つづきです。
光源氏は、東宮のところにも挨拶に行きます。
ここには、藤壺に替わつて王命夫(おうのみょうぶ)といふ女官が仕へてゐます(光源氏と藤壺の逢引の橋渡しをした女性)。彼女を通して、「きょう出発します」と東宮への報告を頼みます。まだ七歳の東宮は、さびしそうに、
「遠くへ行ったら、今までよりももつと逢へなくなつてしまふと傳へてくれ」と。
この後、光源氏は、日中は紫の上とまつたり過ごしました。當時の習ひでは、出立は、夜が更けてから。
「月が出たやうだから、外へ出て見送ってください」
泣いてゐた紫の上も氣を取り直して、いざり出ます。
春三月、光源氏は、須磨に着きました。住まいは海辺から少し入った山中で、まあ、さびしいところです。
さて、源氏物語は、讀み始めると最初のころは、この「須磨」まで讀んで途中でやめる人が多いみたいです。なので、途中で辞めることを、「須磨源氏」といふさうです。
現光寺(須磨)。光源氏の住まいと傳へられてゐます。
えっ? 光源氏なんて本當にいたのかですつて?
さういふのを「野暮」といひます。
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