今日は、討ち入りの日ですね。以前は、十二月十四日近くなるとTVで必ず忠臣蔵をやつていたものです。若い人たちでは知らない人も多いとか。もつたいないなあ。
東京在住の頃は、毎年、この日に泉岳寺に行ってゐました。参拝者みんなが線香をあげるので、煙で前を見ることもできません(笑)。
お参りが終わったら、泉岳寺の近くにある蕎麦屋で一杯。
伊勢久・・・うまかったなあ。もちろん熱燗。東京は、蕎麦屋で一杯が最高です。
さて、住吉神社のことを書く前に、まず、基礎知識として、神功皇后(じんぐうこうごう)について過去個のブログに書いた記事を紹介しています。
仲哀天皇は、父の日本武尊を死に追いやった息長(おきなが)氏からなぜ皇后を迎えたのでしょうか。
仲哀天皇にはもともと后がいて、息子も二人いました。それでも、天皇に即位したあとに、神功皇后を正妻としてめとっています。
その後、仲哀天皇は、敦賀(福井県)に赴き、そこで王宮を設置しています。大和にいられなかったのか、それとも東アジアを見据えて戦略的に日本海側に進出したのかは定かではありせんが、北陸の敦賀は、琵琶湖の北西部、つまり、息長氏の勢力下を越えればすぐのところです。息長氏の娘である神功皇后との結婚と、北陸進出は無関係ではないでしょう。
琵琶湖の北部に竹生島(ちくぶじま)があります。聖なる島「竹生島」です。「ちくぶ」という名は「神が斎(いつ)く」が語源とされています。「いつくふすま」→「つくぶしま」→「ちくぶじま」と転化したといわれています。
琵琶湖の北部に竹生島(ちくぶじま)があります。聖なる島「竹生島」です。「ちくぶ」という名は「神が斎(いつ)く」が語源とされています。「いつくふすま」→「つくぶしま」→「ちくぶじま」と転化していったと言われています
この島を聖なるものとして信仰の対象としたのは、はるか縄文時代にまでさかのぼります。
島の対岸の海底に、縄文時代から弥生時代にかけて島をあがめるために貢物をつめて深さ10~70メートルの海底に沈めた湖底遺跡「葛籠尾崎(つづらおざき)海底遺跡」があります。戦国時代には、岐阜から近江の安土城主になった織田信長が、この島を訪れて参拝しています。竹生島は、何千年もの間、祈りが捧げられた聖地です。
なぜ、突然、竹生島の話になったか。 つづく
君が代の 千代に八千代に 遺された 祖先の祈り 今に続かん
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