やってあげたのに(皇紀弐千六百七十八年十二月二十八日)

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 五世紀ぐらいのことでせうか。支那大陸に 梁といふ國があり、そこに武帝といふ王がゐました(皇帝ではない)。

 支那大陸の歴史の中で、一番仏教を信仰した人と云はれてもゐます。

 そこに、禅宗の始祖 達磨大師がやつてきました。
  偉いお坊さんが來たので武帝は舞い上がります。そして達磨大師に聞きました。

「私は即位以來、寺を造り、經を寫し、僧をたくさん育てました。この私にはどんな功徳があるのでせうか」

 達磨大師は答えます。「無功徳(むくどく)」と。つまり、ご利益(ごりやく)もなにもない、といふ意味です。

 つまり、と利益を期待して何かをやるなといふこと。

 よく、「私は、あの人に〇〇をこれだけ『やってあげたのに』全くわかってくれない」といふ言葉を聞きます。

 ものすごく耳障りな言葉です。「やらせてもらつた」です。

 そんな、下心見え見えで、人に何かをやるぐらいならやらない方がいい。こんな言葉が横行してゐる、組織に強い組織はありません。

 さて、達磨大師の言葉はもつと深い。 私たちは、一つの行爲をすれば、ひとつ以上の効果がはつきりと現はれなくてはそれを「無駄」と感じます。功利的打算的な行爲を離れて、純粋な人間性の心情から出る行爲。これこそが必要なのですね。

 先日の、天子樣(天皇陛下)の御言葉をうかがいながら、これまで天子樣がやられてきたこと、そして、皇祖皇宗以來、歴代の天子樣が國家國民のためにやられてきたことを思ひながら、久しぶりに無功徳といふことばを思ひだしました。

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このページは、宝徳 健が2018年12月28日 08:27に書いたブログ記事です。

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