紫式部は、現代のわれわれには考へられないぐらいの教養人です。
「史記」などの支那の歴史書、「長恨歌」「白文集(しろもんじゅう)」などの漢詩文、「日本書記」などの歴史書、「古今和歌集」などの和歌、「法華經」などの經典などが、紫式部の頭の中にぎつしり詰まつてゐました。
なんと、それらが自由自在に取り出されて源氏物語の中に織り込まれていったのです(源氏物語ものがたり 島内景二)。
紫式部の時代には、かういふ教養は、ある程度當たり前でした。だから、現代人の私達は源氏物語を讀むことはできません。それは現代に限りません。紫式部没後二百年經つたときもさうでした。
こんな歌があります。
中國で 中國美人を 見かけたり 絶海中津で 愛を叫べり
さて、この和歌にはどんな意味があるのでせうか。
では、本文を。第十三帖 明石です。
須磨は數日間 惡天候が續きます。都も同樣 惡天候で政治もままなりません。紫の上も心細く元氣がどんどんなくなります。
そんな中、光源氏の夢枕に亡くなつた桐壺帝があらはれます。
「なんでこんなところにいる」
「お別れしてからは悲しい事ばかりが多く、この海辺で命を捨てるのも仕方がないかと考へております」
「馬鹿なことを云ふな。ほんの少しの罪ではないか。そなたが苦しんでゐるのを知って私は海に入り陸にあがって告げに来たのだ。この海辺を早く立ち去れ。私は都へ入っても帝に告げておきたいことがある」
と言って、消えました。
夢とは云へ、父に会へた嬉しさが胸にこみあげてきます。あれこれ考へてゐるうちに夜が明け、やう燒静まった海に、小舟が着きました。二、三人が光源氏の住まいにやつてきます。明石入道の迎へです。
つづく
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