「魏志倭人傳」といふのは「三國志」の一部分です。私達が知つてゐる三國志は、「三國志演義」といつて、面白く戯曲風に脚色したものです。蜀の劉備玄徳と諸葛亮孔明が美化されすぎてゐます。
例えば「泣いて馬謖(ばしょうく)を斬る」といふ言葉がありますが、これは本當は、自分の地位を脅かす優秀な馬謖を諸葛亮孔明がうとましく思ひ、わざと戰に敗ける作戰を與へて、その責任を取らせ殺してしまつただけです。泣いたのはその場を繕ふため。大きな權力をもつた孔明を誰も非難できません。
西暦184年の黄巾の亂で「漢」が亂れたから280年に西晋が再統一するまでの、約100年間の覇權を爭つた「魏」「呉」「蜀」の三國をさしてゐます。
三國間の内亂状態が後に「三國時代」と呼ばれます。
三國志は陳寿といふ官僚が編纂しました。「魏志」三十巻、「蜀志」十五巻、「呉志」ニ十巻です。
その「魏志」の中の、支那大陸の東方諸民族・諸國について記した第三十巻目「東夷傳」の中の一条である、烏丸鮮卑東夷倭人条の通称です。それが約二千文字。四百字詰め原稿用紙でたつた五枚分しかないのです。そんなほんの少しに命を懸けるやうに研究をする人間のなんと多いことか。
結論=結論が出てない です。近畿だらうが九州だらうが、どちらでもいいのです。原稿用紙五枚分だし、それに支那人が歴史を扱ふときのけいこうをみれば。
だいい邪馬台國とか卑弥呼と云ふ名前自體が蔑称です。次囘はそのことを。
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