世上亂逆追悼(せじやうらんげきついたう)、耳に満つと雖(いえど)も、これを注せず。紅旗(こうき)征戎(せじゅう)、吾が事に非ず。
藤原定家以が十九歳の日記「明月記」に書いた言葉です。1180年九月、富士川の合戰の直前です。源平の爭亂は頂點に達しようとしてゐました。上記の内容は、「そんな騒亂ではなく、自分は美しい芸術の世界に生きたい」です。そう、藤原定家は、理想の場所は、今ここではなく、自分の内にあるのだと宣言したのです。
さて、光源氏と明石の君が深い仲になる直前の頃、都ではどんなことが起きてゐたのでせうか?
光源氏の夢枕に桐壺帝があらはれ、光源氏を叱つたちやうどその頃、朱雀帝の夢にも桐壺帝があらはれ、光源氏の処遇について叱咤を發しました。
桐壺帝は形相凄まじく朱雀帝を睨みつけ、朱雀帝は桐壺帝と目を合はせたとたん目を患ひ、これが惡化していきます。
政敵右大臣が太政大臣になり権力をほしいままにしてゐましたが没しました。光源氏の宿敵弘徽殿女御(ごきでんのにょうご)だけはなおも、光源氏を呼び戻すことに強硬に反對してゐます。
この弘徽殿女御も身体を壊し氣がまつきり弱くなります。
こうした情況の中で、つひに、光源氏を都に呼び戻す評定が下りました。さあ、話は急展開です。つづく
コメントする