正統と伝統(皇紀弐千六百七十九年七月二日)

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 昨日の産經新聞朝刊 正論の 新保さん の記事良いですね~。心が晴れ晴れします。身が震えました。新保さんは出光興産時代 同じ部署でお仕事をした先輩です。その後大学教授になられて、もう退官されたのかな?文藝評論家となっていました。

 タイトルは、
衝撃力を持った「令和」の意義

 記事は後ほど掲載しますが、すてきな文章を抜粋します。

☆新元号が日本の古典から採られたことは、日本が一国一文明である日本文明を保持する国家的気概を示したということだ。それは、伝統に泥(なず)む保守ではなく、正統に基づく保守が根本であることに覚醒したことに他ならない。

☆『神皇正統記』で北畠親房が何故正統という言葉を使ったかに思いを致すべきである。また、西郷隆盛という日本の最大の正統的人物が、明治維新という時代の危機においては、最大の伝統破壊者であったことを考え合わせてもよい。伝統と正統は違うのである。

☆新元号においては時間軸が現れたことだ。明治や平成などの元号では、そこで使われている字がそれぞれ精神的な意味を持っており2文字になったとき、或る象徴的なものを示唆するとしても、そこには時間軸がなかった。しかし、今回の元号が日本最古の歌集である『万葉集』から採られたことで、令和の時代に生きて元号令和を使用するということは、日本人が意識か無意識かは別として日本の古代につながっていることになる。そして以前よりも例え奈良時代は身近なものになり、日本人は、令和という現代を遥かな歴史的感覚をもって生きることになるのだ。



☆ユダヤ人がモーセの出エジプトを記憶しているように、日本人は、神武天皇の神武東征を生き生きと回想しているようにならなければならない。

☆『万葉集』は国民の血肉となり、日本の国家の在り方と日本人の精神の姿が西洋から脱却し、本来の日本に回帰する原動力になるのだ。日本の「夜明け」は、そこからやってくる。

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このページは、宝徳 健が2019年7月 2日 03:02に書いたブログ記事です。

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