今日は、母の命日です。平成七年七月十日没。享年六十二歳。厳しく優しい母でした。姉と妹に挟まれて私は唯一の男。そればかりか、そののち二十年ぐらい私の親族には(父方も母方も)男の子は私だけでした。親戚の人たちは今でも「お母さんは健ちゃんに厳しかったねえ」とよく言います。
確かにそうだったのかもしれません。自分のみが一族の男の子を育てているという自負。姑とのバトルに対する意地。今後の国家を背負う人間としての育成(昭和一けた以前の母親では当たり前の感覚)・・・。
喧嘩で負けたら家に入れてくれませんでした。「お母さんはそんな弱い子を産んだ覚えはありません。もう一度やってらっしゃい。勝つまで帰ってきてはいけません」。 ひえ~、どげんしょうかねえ。と思いました。相手は二歳も年上です。負けても負けても何度も挑んだら「お前なんでそんなにしつこいんや」と聞かれました。「勝つまで家に入れんねん」と言うと、「わかったわかった。負けたと相手が言っとるとお母さんに言えや」となり、家に帰ることが出来ました。母が私に「勝て」と言ったのはこれが最初で最後です。「負けるな」とはいつも言われましたが。負けない相手は「自分に」でしょうね。
これが今のこの日本から亡くなった婦道です。
私が悪事を働いた時もそうです。目の前に包丁が飛んできて床に刺さりました。「今からそれで死になさい。お母さんも一緒に死んで上げます」と。中学生の頃です(私は良い子だと自分では思っていたのですが、周りは悪かったと・・・???)。
昭和一けた以前。つまり、明治の親に育てられた人間は私達とは覚悟が違います。
でも、私には、優しかった母の思い出しかありません。
晩年不治の病になりました。
何十年もずっと、朝目覚めたら絶対に治らない自分の身体にいやでも気づかされる。どんな気持ちになるんでしょう。想像もつきません。きっと、私が心臓病の手術をしたのも、交通事故にあったのも「その程度ですんでありがたいと思いなさい。いつまでなにをやっているの」という天からの母の叱責ですね。
小学校五年生の時に自転車で転んで、ひざ下を十二針縫うけがをしました。ぱっくり割れて骨がみえました。病院で手術です。部位が部位だけに麻酔がうまく効きません。ひと針縫うたびに激痛(なんてものではない)が走ります。手術室の枕のところに立っていた母が、ひと針縫うたびに
あんたは男でしょう!泣いたら承知しないからね!!!
と叫びます。母は泣きながら(笑)。それを子供に強いる 母親が どれだけのエネルギーがいるか。私自身親になってそのすごさがわかります。
動かない身体を気にして、家事を手伝だおうとすると、「あなたは男でしょう!もっと別の仕事があるはずです!! これは私の仕事です!!!」と怒られました。あんな身体でも家の中はいつもピカピカでした。
でも、私には、母の優しい思い出の方が強いのです。もうほとんど動けなくなった晩年。支えながらよく、ご飯デートをしました。ものすごく喜んでくれました。指がほとんど効かないので握りずしが食べられません。板さんに、「まことに申し訳ございませんが、一貫をさらに半分に切ってもらっていいですか?」。母には、「ほら、これでも醤油をつけづらいのね。こういうときはね、ガリを醤油に浸してそれを握りに塗るといいんだよ。半分にしてもらってまだ食べづらいかもしれないけど」。母は「ああ、たけし、おいしいねえ」と。
一切食べ物を受け付けないときもありました。すぐに実家に戻り、食事を作りました。物理的に食べられないのに母にしては迷惑な話です。それでも母は無理をして、私が作ったものを全部食べました。そして、父に、「ほうら、たけしのつくったものはおいしいわ」と自慢げに言いました。いつも、自分のことより人のこと。
痛いという言葉を本当に病気が悪くなるまで聞いたことがありませんでした。病気になるまで母の寝ている姿を見たことがありませんでした。いつも思っていました。「お母さんは、いつ寝ているんだろう」と。
母は、昭和二十七年から二十九年まで、出光興産㈱本社に勤めました。日創丸事件勃発!!!
タイプが出来た母は、何日も何日も窓もない部屋に閉じ込められて暗号電文を日章丸に打ち続けます(日章丸から電文を打つと位置が特定され英国軍艦に拿捕される恐れがあるから、出光本社からしか打てない)。ついには倒れたそうです。当時の出光興産には二十歳の女の子を何日も拉致する力があったのです!!!!
母はそれに文句というどころか誇りに思っていました。この事件は、敗戦に打ちひしがれていた日本国民に言葉にはあらわせない勇気を与えました(当時の国民はまともな人が多かった)。亡くなる寸前、出光の店主室から、そのときに出光に来た国民からの電報とかfaxをコピーして入院中(もうほとんど亡くなる前)に届けました。母は、
「ああ、私の人生は二つの成功があった。あなたを育てたことと日章丸事件。無駄ではなかったね」。
おそらくこれが最後の母の言葉でした。
何が働き方改革だい。思考するは働きがい改革だろう!!!
母の葬儀の時に、出光の役員の方々が参列してくださいました。会社に母が出光にいたことなど言っていませんでした。私の上司方が、「なんで、宝徳のお母さんの葬儀に〇〇さんや〇〇さんが来るんだ」とびっくりしていました。
亡くなった後遺産分けをしたら、何にもありません。姉が父に怒りました。「着物の一つも買ってあげんね!!!」と。違うんです。自分のことより人のこと。昭和一けたです。私は母愛用の湯飲みをひとついただきました。
命日を命日節となづけるなら、この今の情けない私を振り返るよい節となります。壮絶な母の人生に少しも追いついていません。
創業節については、次の記事で。
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