敗戦の日(皇紀弐千六百七十九年 令和元年八月十五日)

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 終戦記念日の定義は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」なんだそうです。それなら、終戦祈念日とすればいいのに。この意味なら分かる。

 でなければ、なんで、戦争に負けたのを祝う日にしなければならないのかさっぱりわかりませんでした。ずっと。

 記念:「過ぎ去った物事などを思い起こすこと」
     「後日の思い出として残しておくこと」

 なら、当然前者の意味合いが強い。であるなら、終戦でなく、敗戦です。

 祈念:「(神仏に)願い事を祈って、その達成を念ずること」

 なら、「平和祈念日」とする方がぴったりしますね。

 平和を創造したいなら、他国より強い武力を持たないと達成できません。

 なぜ、北方領土がどさくさに紛れてソ連にとられたか。なぜ、竹島があんな愚かな國にとられたか。なぜ、拉致被害者が帰ってこないか。なぜ、シベリアに拉致された日本人が六十万人もいたか(死亡者六万人)。すべ武力がなかったからです。

 私には会ったことがない伯母が一人います。

 名前は、堯子(たかこ)。

 昔の親というのはたいしたものです。昔は結婚が早かったのに教養があります。教育がそうだったのですね。 支那の理想の君主 堯・舜・禹の三人。その堯の字をとっています。(ちなみに伯父は 舜一)です。古典の素養が違います。

 堯子伯母ちゃんは、病弱でした。北朝鮮から引き揚げてくる途中、亡くなってしまいます。祖母は、毎年敗戦の日になると、仏壇に向かって「ごめんね。ごめんね」と言いながら泣いていました。朝鮮の固い地面をなんとか家族全員で掘って埋めて来たそうです。そういえば、祖母が怒っているのを見たことがありません。それえと、祖母と(病気になる前の)母は、寝ている姿を見たことがありません。「いつ寝ているんだろう」といつも不思議でした。誰よりも早く起き、誰よりも遅く寝ていました。

 母に曰わく、「怒ったところを見たことがない優しい優しいお姉さんだったんだよ」。

 最期に、「リンゴが食べたい」と言ったそうです。母が朝鮮人に化け、命がけで買いに行きました(朝鮮人は頭の上に篭を置いて買い物に行ったそうです)。

 命が絶え絶えですので、噛んで食べることができません。リンゴをすって食べさせました。「あ~、おいしい」と言って亡くなったそうです。いつも、コーヒー色の嘔吐。それを器に受けたのは母の仕事。「ひろちゃん(母の名前は汎子)、いつもごめんね」。

 敗戦の日になると、いつも、引き揚げの苦しさの話をしてくれました。

☆一緒に引き揚げてくるとき、或る家族にとてもきれいな三人姉妹がいたそうです。ソ連兵が拉致してトラックに載せました。三人はその場で下をかみ切って亡くなったそうです。女性は子どもも含めて、髪の毛を散切りにして顔に墨を塗っていたそうです。成人女性はプラス胸にさらしを巻いていた。

☆日本に帰ることが出来ると朝鮮人に騙されて船を雇いました。いざ乗るときに、うそだとわかり、祖父が朝鮮人に拳銃を腹に突き付けられました。子供たちがないたとき祖父が「泣くな!」と平然としていたそうです。明治の男は違います。 

☆ソ連兵が来たらみんなコーリャン畑に逃げるそうです。コーリャンは背が高いので見つかりにくいとか。

☆ソ連兵は、日本人から腕時計を取り上げます。でも、それが止まったら捨てる馬鹿ばかり。

☆さあ、いよいよ三十八度線です。でも、「ここが三十八度線」とラインが引いているわけではありません。「もう越えたか、もう越えたか」と家族全員で必死に走ります。すると、兵隊が「ああ、ソ連軍に捕まった」と思った瞬間、人形のようなきれいな服を着た兵隊が居ました。アメリカ兵です。

☆南朝鮮から船に乗って引き揚げます。博多港につけば帰るのに便利なのですが、舞鶴港に降ろされました。がっかりきていると「北朝鮮 咸興 から引き揚げてきた福岡の秋武(母の旧姓)の家族をご存知の方はいらっしゃいませんか!!!!」と大きな声が。「にいちゃんだ(舜一伯父)!!!」。奇跡ですね。

 枚挙に暇がありません。

 引き揚げについての小説を紹介します。


 藤原ていさんです。横はご主人の新田次郎先生。世界的大数学者 藤原正彦先生のご両親です。

 そして、 

竹林はるか遠く(ヨーコ物語)


 「竹林はるか遠く」「続・竹林はるか遠く」です。俗にいう「ヨーコ物語」です。アメリカの学校の教科書として、永く使われてきましたが、朝鮮系のアメリカ人の大抗議にあい、取りやめました。
 日本人が引き揚げる時に朝鮮人がどんなにひどいことをしたかを書いた本です。

 日本人としてこれらは必須の書です。

 國に国民を守る力がないと国民はこんな目に逢うのです。それをやれというのが、邪教 日本国憲法「典」です。

 敗戦前、漁をしていた漁船が、ソ連の警備艇に追い掛け回されました。海軍の軍艦がそれを追っ払ってくれました。漁民たちは思いました。「ああ、國に助けられた」。

 大切なのは、戦争の記憶ではありません。敗戦の記憶です。

敗戦の日を目を覚ます機会にしませんか?
祖母がなぜ、仏壇の前で泣かなければならななったか。

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このページは、宝徳 健が2019年8月15日 09:00に書いたブログ記事です。

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