明朝は仕事をしたいので、明日の分を今書きます。
中竹氏は、現役時代は早稲田ラグビー部でありがちなスーパースターではありませんでした。だけど、その中で何が大切かをつかんていたのですね。経験を活かすとはそういうことなのでしょう。
さて、昨日は(今日は)、
「強制要望」こそが、期待通りの成果を拒む要因の一つ。
(このことに反論する人の意見)
「本人がよい方向に向かうように励ますのが何故いけないんだ!」
「相手のためを思ってやっている」
(大切なこと)→この問いをじっくり考えることで「相手のためを思って」という言葉に潜むリスクがみえてくる。
①本当に相手のためを思っているのか?
②なぜその相手に、なぜ期待するか
を整理
(宝)面白いなあ。そのリスクは次回につづく。 まででした。
では、そのリスクを。
なぜ私たちは、自分のことはさておき、「部下」「子供」「配偶者」「上司」などに期待するのでしょうか?
と中竹氏は本の中で問いかけます。
「(部下に)高いスキルや能力を身につけてほしい」
「(子供に)立派な大人になってほしい。いい暮らしをしてほしい」
「(夫に)昇進して、高い給与を得てほしい」 などなどが一般的、
そして、二次問いかけ。
では、なぜ、「成長して欲しいのか」「立派になってほしいのか」「いい暮らしをしてほしいのか」「高い給与を得てほしいのか」と。
さらにここで「対極視点法」が提案されています。
対極視点法とは、理想像を描くときに、まず理想でないものを描く、というように対極にあるものを具現化することで、なかなか見えにくいもの対象物の輪郭や本質を明かにしていくものだそうです。
具体的には
「なぜ、期待するのか」⇔「なぜ、期待しないのか」
を並べて「期待する相手」と「期待しない相手」を対比することで、その本来の解を探っていきます。
「自分の子供」にはすごく期待するけど、「近所の子供」に期待はしない
「自分の部下に」にはすごく期待するけど「隣の部署の若手」には期待しない
ここから見えてくるものは何か
「自己都合や利害関係」と「愛」
期待をかける時、多くの場合、かける側はかける相手に対して深いかかわりがあります。深いかかわりがそこにあればあるほど、相手の行動や成果が、自分自身の身に降りかかってきます。
直接的な利害関係が成立して、結局は「自分のため」に相手に期待をかけている。「利害関係」も「愛」も相手の意思はそこには介在していません。
「自分の子供だから期待して当たり前」。それはなぜ「愛」。愛するのは勝手だが、それに応えてくれというのは相手への強要です。つまり、強制要望。
「強制要望的」な「愛」をベースにした「期待」はひん曲がった「期待」になるということです。親が思っているのとちがう結果を導きます。
私たちが中学生ぐらいのときだったかなあ。「うちの子に限って」という言葉がはやりました。
家では、この「強制要望的」な「愛」をベースにした「期待」に応えようとする子供が外に出て、その枠が外れるととんでもない行動に出てひどいときは犯罪に至るというものです。
警察から家に電話があります。母親が言います。「うちの子に限って」。
「サカキバラセイト」のときもそうでしたね。
期待のミスマッチ。期待する側とされる側が違うゴールに向かっているので、その結果に対し、期待する側ががっかりするのは当たり前です。
あまりに過度に期待を口にして、本人の意思を無視したゴールを設定したり、育て方をしたりすると、相手はやる気を失います。自分の仕事ではなく、上司の仕事になってしまいます。
このシリーズの最初に宇佐美の親父のことを書きました。このシリーズを書いていると、いつも親父のことを思い出します。そんなことも交えながら、では、どうすればいいかを次回書きますね。 なぜ、(ごめんなさい)(俗にいう)優秀な人間はほとんどいないのに、宇佐美が日本で一番生産性が高い石油会社であったか。
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