私の履歴書 2(皇紀弐千六百八十年 令和弐年四月十九日 六)

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 向かって左から。祖父 義一 ぎいち、です。ソ連のシベリア拉致(抑留ではない)で帰ってきませんでした。長男 佳男(父)、次男 正是 まさよし、長女 敏子、次男 卓 たかし、祖母 ツイ

 
 少したって。枠の写真が父 佳男です。軍隊に行っていました(志願兵で)。左下に三男 治 おさむ が写っています。両方とも父方が祖父の仕事の都合で北朝鮮に住んでいるころです。


 三十歳のころの祖父です。明治の人間は貫禄がありますね~。祖父は明治37年4月25日生まれです。
 父がシベリアに拉致されて帰ってこないころ、父を除く家族は北朝鮮から引き揚げてきました。父も松山航空隊から帰還しました。

 引き揚げでソ連兵や朝鮮人がいかにひどかったかは、やはり引揚者であって母からも毎年聞いていましたし、この本を読めばわかります。「竹林はるか遠く」「続 竹林はるか遠く」。アメリカの学校の教科書だったのですが、在米朝鮮人の圧力でなくなりました。この本の通名は「ヨーコ物語」です。





 私の元々の本籍地は福井県丹生郡越前町玉川です。引き揚げてきて、そこにみんなで集まりました。財産は、他人が奪って行って何もありません。海辺でどうしようかとたたずんでいると、そこに大きな蛸が。祖母が手を伸ばすと蛸が絡みつきました。それをみんなで食べました。全員腹を壊したそうな~。

 父が祖父の生誕百周年を祝った時に送ってくれた手紙を抜粋しておきます。

寳德 義一生誕百年祭

-平成15年4月25日・父の誕生日-

○明治37年4月25日生まれ

○大正11年 福井縣立小浜水産学校魚撈科(ぎょろうか)卒業

○大正12年 咸鏡北道水産會書記兼技手(ぎて)

○大正13年 同會専任技手

○大正13年 咸鏡南道洪原郡廰(こうげんぐんちょう) 産業技手

○昭和 6年 咸鏡北道北青(ほくせい)郡廰 産業技手

○昭和 9年 咸鏡南道元山府廰 産業技手

○昭和12年 朝鮮総督府咸鏡南道技手を拝命

○昭和15年 退官-咸鏡南道漁業組合聯合會理事(咸鏡魚聯理事)就任

○昭和18年 咸鏡南道興南邑(こうなんゆう)府 西湖津(せいこしん)漁業組合長

○昭和20年 応召

○昭和33年 昭和21年1月25日 満州国間島省延吉縣で戦病死との通知を受ける

※当時の朝鮮行政区画は

商戦総督府、道(県)、府(市)、邑(町)、面(村9であった。郡は(郡)だが、日本内地と違う点は、郡廰があり、行政の単位となっていた。

 この資料は、皇紀二千六百年(昭和15年9に出版された『咸南名鑑』(元山毎日新聞社刊行-国会図書館蔵)を抜粋したものです。

 この名鑑には、昭和8年5月に自分のカメラで写した30歳のときの写真(右)が掲載されています(※この写真は後日掲載します)。

 この資料によると、昭和13年、佳男(※私(寳德健)の父)の同級生の父-堀平吉氏とは洪原郡廰(こうげんぐんちょう)時代に一緒だったのではないかと思われるものがあります。堀氏は経理でお父さんは産業(水産)です。


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このページは、宝徳 健が2020年4月19日 08:38に書いたブログ記事です。

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